Jazz

ジャズとイスラームの面白い関係(2/3)

イスラーム チャーリー・パーカー

チャーリーパーカーのムスリム伝説

 チャーリー・パーカーがイスラーム教に傾倒していたことは、様々な記録があり、最有力は、イスラーム教徒に”改宗”し、”サルーダ・ハキム”というムスリム名を持ったとされていることである。

・http://ja.danielpipes.org/blog/13902
・https://books.google.co.jp/books?id=yuubqYxkRfYC&pg=PA48&lpg=PA48&dq=charlie+parker+islam&source=bl&ots=9jCWe_IAVn&sig=ACfU3U10FFZTne2Fm03GieSO2lxlMwEkpg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiTmbS32PPnAhUrE6YKHRPvAPkQ6AEwAnoECAcQAQ#v=onepage&q=islam&f=false

しかし、一体どのようなプロセスでどのような考えでイスラーム教に改宗したのかは、諸説あり、情報が定かでないのが現状だ。

 

以下CHARLIE PARKER RECORDS CP(2)502″LIVE AT ROCKLANDPALACE SEPTEMBER 26, 1952″のライナーノートにて書かれいていた日本語訳である。

チャーリー・パーカーの音楽が政治色を帯びていないことは明らかであったが、彼はしばしば政治的左派の企画した労働組合集会や急進色のあるホリデイスパで演奏した。このアルバムに刻まれた演奏の場合は、パーカーは自身の音楽が政治的に供されることを了解していた。この催しは、共産党員主要11人の一人であるベンジャミン・ J・デイビス・ジュニアの誕生日を祝うダンスパーティーとして、1952926日に開催された。党員たちは、合衆国政府を転覆させるような圧力をかけることを指導したり推奨することを非合法とする法令、いわゆるスミス法により、1949年に有罪判決を受けていた人々である。
〜中略〜
パーカーは、アフリカンアメリカ音楽に斬新な転換をもたらした。彼は、多面的で民族や国籍に囚われない新しい洗練性と複雑性を音楽に取り入れた。その上、伝統的な黒人芸に付き物の大げさで口をニヤリと開けて笑うようなことを拒否し、黒人の医者や弁護士、靴磨きやベルマン、作家や画家といった人々が感じていた人種的独立や誇りを主張したのである。音楽家達の中には、他の様々な人々と協演しながら、白人社会を敢えて避けるよう努力しイスラム教に心酔する者もいたのである。しかしながら、パーカーと彼の同世代の人々が1960年代の社会的、政治的な活動の予兆となったとするには、あまりに彼らの周辺で起きていたことを無視していることになる。ベン・デイビスだけが、この国の黒人活動家の中で、唯一、政治の舞台で炎に薪をくべる人物であったのである。A・フィリップ・ランドルフは、1941年、ワシントンにおいて10,000人の人々の行進を先導しようとしたが、その結果、ルーズベルト大統領は、防衛産業での雇用について人種差別禁止令を緊急発令した。のちに、ランドルフはトルーマン大統領に圧力を加え、その結果、大統領令が出され、軍隊での人種差別が法的に禁止されたのである。1934年に遡るが、アダム・クレイトン・パウウェル・ジュニアとほかに2人が、ハーレムの125丁目のデパートに対する不買運動を先導した。すると、これらのデパートは次々と黒人販売員を雇用しないという施策を取りやめた。1930年代の終わり頃には、パウウェルは、黒人を雇用するよう、コンソリデイテッド・エジソン社やニューヨークの電話会社や多くの企業に圧力をかけるグループを先導した。デトロイトでは、エリイジャ・ムハンマドが1931年に黒人のイスラム教運動を立ち上げた。パーカーや彼の一派が社会シーンに舞台を移すよりも遥かに以前に、黒人の政治的抵抗は最高潮に達していた。そして、社会の深い底流には、「怒り」というものがずっと横たわって来た。そのことが、1943年のハーレムとデトロイトにおける暴動で証明されたのである。部分的にしろ、パーカーの音楽は、恣意的に創り出された動乱の時代を忌み嫌っていた。しかし、だからと言って、彼の創作活動が何か決定式のようなものがあって形作られているというものでも決してなかった。芸術というものは、社会環境とそれを意識することでの表現と、私達が知っていたり考えたりすることを超越しようとする努力の両方の結晶なのだ。逆説的ではあるが、音楽とは抽象的にして同時に究極の実物でもあるという、それら両方を同時に満たすものなのである。音楽というものは、抽象的なものと実在の違いを、心底、解決し得るものである。パーカーの音楽が周りの社会情勢を取り込んでいくにつれ、彼は、私達に自分達を新たな目で見つめ、そして世の中をこれまでとは違うように見る術を示してくれた。〜略〜          ホリー・I・ウェスト ( 山田チエオ氏 訳 )

 これからわかる内容は、少なくとも、1930年代に始まったのちに言われるブラック・ムスリム・ムーヴメントと呼ばれる社会運動が、1950年代に公民権運動と連動して急速に拡大し、アフリカ系アメリカ人のジャズメンたちの中で、イスラム教へと改宗する人たちがいたことを示唆していることである。

また、TBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』の放送19回目「アラブ特集」では、チャーリー・パーカーとイスラームの関係は次のように紹介されている。

『チャーリー・パーカーはイスラム教に興味を持っていた。彼のイスラム名はサルーダ・ハキムといった。そしてフラニックアラビア語を少し知っていた。ある日の午後、私が学校からヴィレッジに帰って来ると、バードが交差点の向こうに倒れているよ。とにかく倒れたんだ。数人の人達が助け起こして、気絶したバードの意識を取戻させようとしている、というやつがいた。後でまた会おう、と私はその友人に・・・以下中略。バードを2階まで運びあげるのは、かなり大変だった。バードは骨太の男でしかもその数年来太り始めていたからだ。バードは体の力をみんな抜いていたが、気絶はしていなかった。彼をなんとか2階まで運びあげるには4人の力を必要とした。私が先頭に立った。私のベッドに横たえ、靴を脱がせるとバードはのたうち始め、人事不省に近い状態のまま「イスラム教徒はいないか。イスラム教徒のあの男はどこにいるのだ?コーランを少し聞かせてもらいたいのだ」と言った。私は自分のコーランを持ってきて、アラビア語でバードに読んで聞かせ始めた。バードは大変な感銘を受けているようだった。両手を心臓の上にあて、それから体の両脇に手の位置をすりかえたりしていた。3節ほど読むと「やめてくれ」と言った。「美しすぎる」とバードは言うが』

 そして、パーカーはビ・バップにおいて、数人で演奏するコンボ形式と呼ばれる音楽スタイルを求め、それまでのジャズのスタイルであるビッグ・バンドとは大きな違いがあった。ビッグ・バンドは、大人数編成で演奏し、コンサートマスター、ファーストパート、セカンドパートといったように各役割が与えられており、役割に多少の優劣が混じっている。それに対し、ビ・バップの音楽スタイルであるコンボ形式が求めることは、各楽器が担う「役割の平等性」である。全ての演奏者に即興でソロ演奏する自由があり、また少人数での演奏スタイルのため、演奏者誰一人欠けてはならない存在であり、それぞれが対等な関係である。また、ビ・バップの音楽スタイルにおいて、インプロビゼーション、即興という点は忘れてはいけない。ある種、譜面を読んでいくビッグ・バンドのスタイルとは違って、テーマとなる音楽の中で、何かを提案したり新しい音楽を作ったりテーマの音楽をひきたてたりと、即興で創っていく点はビ・バップの時代で創造されたと言っても過言ではない。

 こうした背景に、パーカーの中に音楽的平等性を重んじるであろうう考え方を感じると文脈が繋がるだろう。例えば、ビ・バップでは全ての楽器演奏者に、即興演奏をすることができる権利を持っていたりする。セッションするメンバーにリーダー的な人物がいない場合、それぞれの楽器演奏者の権利はビッグバンドとは違って平等であると感じられるだろう。そして何よりも、パーカーが創始したビ・バップの最大の音楽的かつ社会的貢献とは、黒人ミュージシャンにおける「表現の自由」の確証的な部分は非常に大きい。当時、横行していた黒人差別を、音楽の力で打ち勝つことができたのがビ・バップであり、肌の色を問わず、人々はジャズに熱狂したのだろう。そして、即興で奏でる一音一音が人々に認められるだけでなく、圧倒的な自由性の高さが黒人ミュージシャンの近代的自我の意識を革命的に目覚めさせた。初めて味わう自由の味に心を動かされ、以後、上述のミュージシャンをはじめ、クリフォード・ブラウン、マックス・ローチ、ソニー・ロリンズ、バド・パウエル、セロニアス・モンクなどといった、伝説と呼ばれる多くの黒人ジャズミュージシャンが生まれたのではないかという切り口もあっていいのではないだろうか。

(文:濱田真秀)