大分県の別府は日本のジャズの発祥の地と呼ばれていた?

「別府はジャズのまち」

大分県別府市に行くとこうした言葉を耳にします。

どうも、Jazz2.0編集部の濱田です。

今回は、実際に別府に行って
別府はジャズのまちと呼ばれている理由について、調べてみました。

すると、思いがけない多くの事実を発見することができたのでまとめてみました。

別府とジャズの関係

第二次大戦後、大分県は、1945年10月13日に米国コリンズ中佐が率いる第5兵士団第5戦車大隊が推進し、その後1957年まで駐屯していました。

別府では1946年12月15日に「キャンプ・オブ・チッカマウガ」と名づけられた米軍駐屯キャンプが野口原に作られ、1956年の撤退まで米軍の駐屯生活が続けられていました。

1957年日本に返還された後、1975年までは陸上自衛隊別府駐屯地として使用され、1976年に別府市に返還されましたが、その広大な敷地は別府公園として現在は市民の憩いの場となっています。

米軍が別府を駐屯地に選んだ真意は定かにされていませんが、なぜ別府が選ばれたかというと、やはり世界的な温泉地であると共に、海陸の交通の要所であったからだと推測されています。
そして、こうしたアメリカ人の生活を支える娯楽もまた、別府という地に広がっていった背景があります。
いたるところでクラブやバーが生まれ、いたるところでジャズが流れていたと言います。これが別府市をジャズの街とした出発点です。

別府から生まれた世界的ジャズピアニスト秋吉敏子氏

第2次世界対戦で空襲を受けなかった別府には、戦後、満州から多くの人々が別府に移りました。

日本人ではじめて世界JAZZの殿堂入りを果たし、過去にグラミー賞を11回をも受賞している世界的ジャズピアニスト、秋吉敏子さんもまた、満州から移ってきた1人でした。
秋吉敏子さんは、日本に引き揚げた後、周りにピアノが無く、存分にピアノが弾けるということで別府のダンスホール「つるみダンスホール」のバンドピアニストとしてプロデビューしました。
当時、秋吉敏子さんはダンスホールの営業前にクラシックを弾いていたようですが、徐々にジャズに傾倒していき、別府に素晴らしいピアニストがいると県を超えて有名になっていきました。
その後、その後、福岡、東京と渡り、自己のグループ「コージーカルテット」を結成。このコージーカルテットで名声を博し、さらには来日中のオスカー・ピーターソンに認められるなどと実績を積み上げ、渡米し、今の活躍があります。

別府から生まれた日本一長い歴史を持つジャズの祭典

この別府という地では、「城島ジャズイン」と呼ばれるジャズフェスが1972年から行われていました。
ちなみに、日本で最も古く歴史のあるジャズフェステイバルと言われているのが、1965年に開設したスキー場・サンケイバレイの山ろくで開催されていた「びわ湖バレイジャズフェスティバル」で、1968年には、原信夫音楽事務所が全精力を傾けて企画・制作・主催をした全日本ジャズフェスティバルが行われてます。
当時、西日本では最大級のジャズフェスティバルとして国外からも多くの著名アーティストが来日しています。
例えば、1982年には、Art Blakey & The Jazz Messengers + Freddie Hubbard、カーメン・マクレエ、ヒースブラザースなどが出演していました。

城島ジャズインは1972年から1981年の9年間、連続で開催され、1982年、『国際ジャズフェスティバル』と名を変え、さらにそこから15年後、1997年まで別府市の夏の風物詩として、市民は元より多くのジャズファンによって、イベントは支えられてきました。
そんな別府発のジャズフェスは、日本一長い歴史を持つジャズの祭典として、全国にその名を轟かせていたのです。

こうした背景から、古くから別府に居住されている方にお話を伺うと、「別府は日本のジャズの発祥地なのではないか」と自負されていました。これ以外にも、別府とジャズの歴史的親和性は多数存在し、別府市の平野資料館等にて確認することができます。