Jazz

【ジャズとは】ジャズ音楽を歴史から紐解く

歴史

ジャズの発祥はアメリカのニューオリンズ

ジャズ発祥の地と呼ばれる場所、それは、ルイジアナ州、ニューオリンズです。

1718年、フランス人によって開拓されたニューオリンズは、スペイン領から再びフランス領となり、1803年にアメリカ領となりました。

その複雑な歴史と港町としての性質から、ニューオリンズには様々な文化、そして、様々人種が溢れていました。
それは、アメリカ人、フランス人、スペイン人、イギリス人、そして、アフリカから連れてこられた黒人奴隷です。

ニューオリンズに存在した人種差別の背景

人間の平等、人種差別の撤廃を唱えたアメリカにありながら、19世紀初頭のニューオリンズは、奴隷売買の中心地として栄えていました。
しかし、当時商品とされて売買されていた、黒人奴隷の子孫がやがてジャズという今日のポピュラー音楽に多大なる影響を及ぼす”芸術”を生み出すことになります。

奴隷取引の中心地であるニューオリンズには、アメリカ南部の他の地域から多くの黒人奴隷が連れてこられました。
その奴隷たちは、この街に様々な音楽を持ち込みました。

労働の時に歌うワークソング、宗教的な内容を持つ黒人霊歌、そして1人の呼びかけに大勢が答えるというコールアンドレスポンスと呼ばれるスタイルです。

クレオールと呼ばれる人種の存在

ニューオリンズには、クレオールと呼ばれる人々がいました。

クレオールとは、フランス、もしくはスペインの入植者と黒人との間に生まれた人々です。
クレオールは、比較的裕福で、普通の黒人よりも肌の色が白く、白人と同じ身分を与えられ、他の黒人たちを一つ下に見ていました。クレオールの中には、奴隷を所有しているものもいたほどです。

そんな中、クレオールは、白人と同じ身分を与えられていた背景から、ヨーロッパのクラシック音楽を他の黒人たちに伝える役割を果たしました。
こうして、アフリカの音楽とヨーロッパの音楽が出会い、融合し、ジャズを生み出す基盤が生まれました。

ミンストレル・ショーと呼ばれる出し物で行われた「ジム・クロウ」

19世紀の中頃から、ニューオリンズの劇場で、ミンストレル・ショーという出し物が演じられるようになりました。
それは白人の芸人が顔を黒く塗って黒人に扮し、黒人風の歌や踊り、コントなどを披露するものでした。

そこに描かれたものは、白人の目から見た、歪んだ黒人像に他なりませんでしたが、ショーが人気を博したことで、黒人のイメージを固定化する結果となりました。

人種差別的な色は濃かったもの、ミンストレル・ショーにおける生き生きとした音楽やジョークは多くの人々の心を掴みました。
また、しばらくすると、本物の黒人がショーに出演して、白人の作り上げた歪んだ黒人像を演じるという盗作した現象も見られるようになりました。

ミンストレル・ショーにおける最初の大ヒットは、ダディー・ライスという白人によって書かれたジム・クロウという出し物でした。

やがて、このジム・クロウという名前は、全ての黒人にとって忘れがたい差別の象徴となります。

南北戦争の勃発

1861年1月26日、ルイジアナ州は、アメリカ合衆国を離脱。その年の四月にアメリカを二分する南北戦争が勃発しました。

しかし、翌年の四月には北軍の艦隊がミシシッピ川に侵入し、早くもニューオリンズを降伏に追い込みました。
北軍の勝利によって、自由になったニューオリンズの黒人たちは新たなエネルギーと創造力を獲得しました。そのため、南北戦争の12年間、北軍は南部を占領し、黒人奴隷を解放しました。

こうしたことから、人種差別を禁止する法律が制定され、黒人の虐げられた歴史は終わりを告げるところでした。

1877年、北部の共和党と南部の民主党の間に政治的取引が成立。占領軍が撤退すると、以前と変わらぬ黒人差別のシステムが復活しました。
小作制度が奴隷制度に変わって黒人を支配し、KKK団によるリンチも日常茶飯事となりました。

この頃に制定された黒人差別を認める一連の法律をジム・クロウ制度と呼びます。ミンストレル・ショーの大ヒット作は、こうして黒人差別の代名詞となっていったのです。

しかし、ニューオリンズはこうした劣悪かつ最悪の環境をしばらくの間、免れることができました。

ジャズの成立に必要不可欠な2つの要素

1890年代、ジャズの成立に必要不可欠な2つの音楽がニューオリンズにもたらされました。

1つは中西部の黒人ピアニストたちが作り出した音楽、ラグタイムです。

ラグタイムは、心が弾むような軽快な音楽で、黒人霊歌、ヨーロッパ民謡、行進曲など、様々な音楽をもとにして生まれた音楽です。この音楽の革新的だった点が、今までにない、新鮮で明快なシンコペーションのリズムにありました。

ラグタイムはその年、半世紀に渡って全米で大流行することになります。

同じころ、ニューオリンズにやってきたもう一つの音楽、それがブルースでした。

この頃、ミシシッピ川のデルタ地帯から黒人労働者が続々とニューオリンズに流れ込んできました。
というのも、綿花畑やさとうきび畑での労働よりも、ニューオリンズの公安施設で働く方が収入が良かったためです。
そんな労働者の引越し荷物の一つにブルースがありました。

ブルースは多くの場合、3つのコード進行と12小節の繰り返しという単純な形式で成り立っています。
しかし、その単純さゆえに演奏者の個性が強く反映され、無限のバリエーションを生み出すことができます。

また、ブルースの双子兄弟であると言われている音楽に、黒人教会で歌われる聖歌があります。この聖歌から、コールアンドレスポンスをはじめ、聖歌に見られるいくつかの特徴がブルースにも受け継がれています。

しかしブルースは、神を讃える歌ではなく、人間の喜怒哀楽を表現する歌として区別されており、スピリチャルな要素は聖歌に比べてありません。

そんな中、ニューオリンズでは、ブルースのメッセージを管楽器で表現する試みが行われるようになりました。

当時のミュージシャンが使っていた管楽器は、南北戦争時代の軍隊の払い下げでした。そのため、初期の演奏も軍隊風でした。
そんな軍隊風の演奏だったのが、賛美歌を真似て、音の終わりにビブラートをつけたりなど、綺麗なメロディーを演奏するようになりました。

それによって、神聖な教会の音楽と世俗的なブルースとが融合しました。
すなわち、教会音楽とブルース、ミュージシャンが管楽器を使い、その両方の要素を自在に組み合わせて演奏されるようになりました。

こうしてブルースはその後100年間、ジャズをはじめとする豊かな源泉となっていきます。