Musician

【紹介・解説】エラ・フィッツジェラルドってどんな人?

Ella Fitzgerald エラ・フィッツジェラルド 紹介解説

20世紀の女性トップ・ジャズ・ボーカリストといえば、エラ・フィッツジェラルドと言われるほど、歴史的に非常に大きな功績を残したシンガーの1人がエラ・フィッツジェラルドです。

現在では、レコード屋さんなどに行くと大々的に飾られたりしていますが、若い世代にはなかなか知られていないのではないかと思います。

というわけでこんにちは。

Jazz2.0編集部の濱田です。

濱田
濱田

エラ・フィッツジェラルドの音楽は、伝説のハリウッド女優、マリリン・モンローをも魅了した美声で、スキャットでもバラードでも、その実力は間違いありません。

今回は、そのエラ・フィッツジェラルドについて紹介、解説します。

生い立ち

エラ・フィッツジェラルドは1917年4月25日、ヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれました。

その後、すぐに母親とともにニューヨークに出ます。

というのも、内縁の父親は家を出ており、母親は別の男性と関係を持ったからです。

母親は仕事のためにエラ・フィッツジェラルドを養護施設、孤独院に預けることもありました。

そんな中、エラ・フィッツジェラルドが14歳の頃、母親は心臓発作で若くしてこの世を去ってしまいます。

こうした環境だったからこそ、学業どころではなく、やがて売春宿やマフィアの下働きをするようになります。

失われた場所, 建物, 売春宿, パイ生地, 放棄されました, 雰囲気, 気分, アーキテクチャ, 廃止

そして、警察による補導や少年院送りを繰り返しながら、ホームレス生活を余儀なくされるなど若くして人生崩壊の危機を迎えます。

そんな危機を救ったのは、1934年11月21日、黒人芸能の殿堂アポロ・シアターで行なわれていたアマチュア芸能コンテストでした。

当時17歳のエラはそのコンテストにダンサーとして出場しようとします。

ところが、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、彼女は歌で勝負することに急遽変更。

そして、自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露しました。

この日、彼女は見事に賞金の25ドルを獲得。

こうして、彼女の歌手としてのキャリアがスタートすることになります。

経歴

エラ・フィッツジェラルドは、アポロ・シアターのコンテスト後、ハーレム・オペラ・ハウスで行なわれたオーディションでも優勝します。

1935年の2月にタイニー・ブラッドショウ楽団で歌手デビューを果たし、すぐに彼女は、チック・ウェッブ楽団の専属歌手に招かれます。

そして、チック・ウェッブ楽団と共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作りました。

ヒット曲となった作品は、当時病気で療養中であったチック・ウェブのためにヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』です。

本作品は、17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげるなど、大ヒットを記録したことで、彼女の名前は一気に広く知られるようになります。

しかし、そんな療養中であったチック・ウェブは、1939年に亡くなります。

そのため、彼女はバンドを維持するために自らバンド・リーダーとなり、バンドの名称を”Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra”へと変更して再出発することになりました。

しかしバンドが解散し、1941年以降、ソロ活動がスタートします。

初期はデッカ・レコードに所蔵し、Milt Gablerがマネージャーを務め活動しました。

40年代後半になると、エラはノーマン・グランツが企画するJATPに参加します。

JATPの経験は、スキャトにおけるエラの素晴らしい歌唱を生み出し、ルイ・アームストロングとデュエットの傑作を録音します。

ちなみに、レイ・ブラウンとはこの時期一時結婚しています。

1955年にデッカを離れた後は、ヴァーヴ・レコードに所属しました。

特に、50年代からのエラの作品は、世界中で人気を博しました。

というのも、世界的な音楽雑誌であるダウンビート誌にて、1952年から1971年まで、ジャズ批評家が選ぶ女性ジャズ・ヴォーカル部門の第1位に選ばれ続け、数々の名盤と呼ばれる作品を作り続けたからです。

その上、グラミー賞を13回受賞したり、1992年には当時のブッシュ大統領から大統領自由勲章を受章したりと、その活躍はジャズの歴史の中でも深く刻まれています。

ちなみに、大統領自由勲章は、ジャズ界でデューク・エリントン、カウント・ベイシー、フランク・シナトラらに続く快挙でした。

まとめ
・ダウンビート誌にて20年間女性ジャズ・ヴォーカル部門の第1位
・グラミー賞受賞13回
・大統領自由勲章を受章

おすすめアルバム5選

ELLA AND LOUIS

エラ・フィッツジェラルドはサッチモことルイ・アームストロングとの二人三脚で、「エラ・アンド・ルイス」のほかに「エラ・アンド・ルイス・アゲイン」「チーク・トゥ・チーク」といった数多くの名作を残しています。

中でも、2人のアルバム第一作が「エラ・アンド・ルイス」で、1956年11月に発売されたのちベストセラーとなり、

エラの歌とサッチモのトランペットの相性の高さは、ファンの心を掴みました。

“Mack the knife” Ella in Berlin

1960年に発表された『エラ・イン・ベルリン』。

タイトル通りドイツのベルリンで行われたライブの模様が収められたアルバムです。

代表曲でもある「マック・ザ・ナイフ」は、現在でもジャズのスタンダードナンバーとして受け継がれています。

この作品は、1960年にグラミー賞を受賞しますが、約40年後のナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンスへの殿堂入りを機に、グラミー賞の殿堂入りを果たしています。

SOMEONE TO WATCH OVER ME 

エラ生誕100周年を記念した作品となっています。

現代テクノロジーによって、エラが残した数々の名唱をリマスタリングし、ロンドン交響楽団があらたに編曲した演奏とオーヴァー・ダビングしたアルバムです。

Song in a Mellow Mood

エラのボーカルとエリス・ラーキンのピアノのみというシンプルなサウンドだからこそ、エラの歌声を存分に楽しむことができる名盤です。

まだ34歳だったエラのジャズ・ヴォーカルの女王として絶頂期の実力を聴くことができます。

At the Opera House

1957年9月29日、シカゴのオペラハウスにて、オスカーピーターソントリオをバックに行なわれたエラの黄金期の貴重なライブ録音です。

「ストンピン・アット・ザ・サヴォイ」だけは、ロイ・エルドリッジ、J・J・ジョンソン、レスター・ヤング、イリノイ・ジャケー、コールマン・ホーキンス、フリップ・フィリップス、スタン・ゲッツ、ソニー・スティットも参加して収録されています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

エラ・フィッツジェラルドは、晩年には糖尿病と闘い、1996年に79歳で亡くなってしまいます。

しかし、今でもエラの人気は健在で、残してきた数多くの名盤は今もなおファンを虜にしています。

この記事を通して、エラ・フィッツジェラルドの魅力が少しでも伝わったら嬉しいです。

それではまたお会いしましょう。

Jazz2.0編集部の濱田でした。