マイルス・デイヴィスというミュージシャンの名前を一度は耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
マイルス・デイヴィスは、ジャズ史上最も有名なジャズ・ミュージシャンの一人で、ジャズの新しい音楽スタイルを開拓し続けたイノベーターとして全世界で広く知られています。
そんなマイルス・デイヴィスは、「ジャズの帝王」という愛称で今もなお愛され続けています。
というわけで、こんにちは!
自分もジャズトランペットを演奏するということもあって、同じトランペッターであるマイルス・デイヴィスの音楽を浴びまくっているJazz2.0編集部の濱田です。
そしてなぜ、マイルス・デイヴィスはこれほどまでに有名で全世界で売れたジャズ・トランペッターだったのでしょうか。
それはズバリ、マイルス・デイヴィスはアーティストでもありながら優れた事業家でもあったからです。
そんなマイルスの人生を描いた書籍『マイルス・デイビス自伝』で、どのようにしてマイルスが生きていったのかがわかり、生い立ち、キャリアなどあらゆる部分のマイルスを知ることができます。
そこで今回は、マイルス・デイヴィスというミュージシャンを、ジャズの歴史的文脈だけでなく、事業家的な視点でも紹介したいと思います。
それでは参りましょう!
生い立ち
マイルス・デイヴィスこと、本名マイルス・デューイ・デイヴィス三世は、1926年5月26日にアメリカ合衆国イリノイ州オールトンにて生まれました。
二つの歯科医院に農場まで持っていた父は開業歯科医で、アーカンサスでオルガンを教えていた母は音楽の先生。そして、祖父は1000エーカーの土地を持つ地主。
アフリカ系アメリカ人の中ではトップクラスな生活を送っていて、一般的な白人家庭よりも遥かに裕福でした。
少年時代
マイルス・デイヴィスの少年時代は、野球、サッカー、バスケ、水泳、ボクシングなど、色んなスポーツを起用にこなすスポーツ少年でした。
特にボクシングが大好きで、生涯にわたってボクシングで身体を鍛えていたほどです。
俺は、それを“バード”とボクシングから教わったんだ。まず、しっかり楽器の吹き方の基礎を身につけたら、こんどはそれをクイックにやれるようにする。真に大切なのはこの2つだけだ
(マイルス・デイヴィス自伝)
マイルス・デイヴィスの自伝からもわかる通り、ボクシング愛が伝わりますね。
また、マイルス・デイビスは、少年時代にもう一つハマっていたことがあります。
それは「ハーレム・リズムズ」という音楽番組です。
この音楽番組では、ルイ・アームストロング、ジミー・ランスフォード、ライオネル・ハンプトン、カウント・ベイシー、デューク・エリントンなどがかかっていたそうで、マイルスは、ブルース、ビッグバンド、ゴスペルに特にハマっていたそうです。
番組を聴きたいばかりに学校にもよく遅れたとのことで、そんなラジオにかじりついていた頃は8-9歳のときでした。
そしてマイルスが9歳の頃、隣に住んでいた父の友人であり父と同じ医師のユーバンクさんからトランペットをもらい吹き始めます。
また両親のすすめもあって、同じ頃トランペットのレッスンを受け始めるようになります。
そんなマイルスは12歳のとき、すでに将来ミュージシャンになることを決めていたそうで、13歳の誕生日に父からのプレゼントでトランペットをもらいます。
こうして史上最大のジャズ・トランペッターの道がスタートするのです。
ブキャナン先生との出会い
マイルス・デイビス自叙伝にも度々登場するのが、ブキャナン先生という中学生時代に出会った先生です。
オレは、ブキャナン先生がトランペットを吹くのを見ながら、いろんなことを覚えた。そうやってオレは、オレだけのトーンを身につけたんだ(マイルス・デイビス自叙伝2)
ブキャナン先生こと、エルウッド・ブキャナンは、歯科医の父親のちょうど患者だったこともあって、マイルスはエルウッド・ブキャナンに師事します。
ブキャナン先生はマーチや、クラシカルな伴奏曲などを演奏させ、ジャズはやらなかったと言います。
また、マイルスが生涯にわたって、ストレートに演奏する奏法は、当時エルウッド・ブキャナンからビブラートをかけずにトランペットを吹く奏法を身に付け、教えを守ったことでした。
さらに、マイルスにクラーク・テリーを紹介してくれたのもブキャナン先生でした。
マイルスは、最も影響された人物の一人として、エルウッド・ブキャナンをあげるほど、ブキャナン先生との出会いは非常に重要なものとなりました。
経歴
15歳でプロに
ユニオン・カードと呼ばれるジャズクラブで演奏するための証明書があります。
なんとマイルスは、ミュージシャン・ユニオンに加入し高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れるのです。
セントルイスで活動するトランペット奏者のエディ・ランドールの率いるブルー・デビルズというバンドに加入したり、ピアニストのエマニュエル・“デューク”・セントクレア・ブルックスとドラマーのニック・ヘイウッドとバンドを組んだりと精力的に活動し、マイルスが16歳の頃、セントルイスでは噂のトランペッターと話題になっていたそうです。
高校3年生のときには、プロのバンドからいくつもの誘いを受けます。
しかし、学業に専念してほしいと願う両親に、高校卒業まではバンドの参加が許されす、もっと演奏活動をしたいというマイルスとのせめぎ合いに明け暮れ、高校を卒業することとなります。
最初のチャンス
高校を卒業したマイルスのもとに、当時の人気バンド「ビリー・エクスタイン楽団」がセントルイスのジャズクラブ「リビエラ・クラブ」に出演するというニュースが届きます。
このバンドには、レコードやラジオを聴いて当時の憧れのミュージシャンたちであった、アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーと、トランペット奏者のディジー・ガレスピーも参加していました。さらには、シンガーのサラ・ボーンもいたのです。
だからこそ、絶対に行きたいライブでした。
ライブ当日、胸を躍おどらせながら、マイルスはサウンドチェック、リハーサルに顔を出します。
すると、突然ディジー・ガレスピーがマイルスのところにやってきました。
「結核で急遽入院したバディー・アンダーソンで休んだトランペッターの代役が必要なんだ」
この一言で、急遽マイルスが参加することになったのです。
こうして、マイルスは2週間もの間、ビリー・エクスタイン楽団のメンバーとして演奏することとなります。
そして、自分の憧れだったミュージシャンと初めて共演したマイルスはその感動が忘れられず、マイルスの人生はこの経験によって大きく変わります。
「もしビッグ・アップル(ニュー・ヨーク)に来たら顔を出せ」
そんなパーカーの言葉も支えになって、マイルスはニューヨーク行きを決心するのです。
いざニューヨークへ
マイルスは両親を説得すべく、ニューヨークに行くための口実として、ジュリアード音楽院に進学すると言います。
もちろん、マイルスはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーといった憧れのヒーローたちと交流しセッションをすることしか頭にありませんでした。
しかしこの頃、父親と母親の関係は最悪で離婚しており、マイルスは母親と一時暮らしていたものの、喧嘩が絶えなかったそうです。
また、当時の愛人であったアイリーンが妊娠しシェリルという女の子を生みます。
結婚はしなかったものの、夫婦同然に暮らし、ニューヨークに行くギリギリまで一緒に生活していたそうです。
そんな様々な悩みを抱えながらも、母親の反対を押し切る形で、結局ジュリアード音楽院に入学することとなり、1944年9月、マイルスはニューヨーク行きの汽車に乗って、旅立つのです。
ジュリアード音楽院時代
マイルスは、両親の知り合いのベルという人が経営していたニューヨークの147丁目、ブロードウェイにあった下宿屋で生活を始めます。
当時の仕送りは、父親から授業料、部屋代、その他に1-2か月は困らない小遣いと、ニューヨークでもその裕福さを物語っています。
しかし、マイルスはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーを探しにジャズクラブをあたりますが、なかなか見つけることができません。
当時の様子をマイルスはこのように残しています。
こうしてパーカーと再開を果たしたマイルスですが、たまたまその日の生活にも困っていたパーカーはマイルスの部屋に転がりこんで、マイルスの奇妙なニューヨーク生活が始まるのでした。
ジュリアード時代、昼は学校、夜はパーカー、ディズとのセッションというめまぐるしくも濃厚な日々を送るようになります。
ジュリアード音楽院では、音楽理論、ピアノ、ディクテーションの単位を履修していたそうで、成績もトップクラス。
夜はハーレムの「ミントンズ・プレイハウス」のジャム・セッションに参加する日々でいた。
また、ジャム・セッションを通じて、多くのスター・ミュージシャンと知り合うこととなり、コールマン・ホーキンスやケニー・クラーク、ファッツ・ナバロ、セロニアス・モンク、エディ・ロックジョー・デイヴィスなどはこの頃か親交を深めています。
しかし、あまりにセッションに夢中になり、学校に行くのが疎かになっていきます。
「ジュリアードでの勉強を終えてバード(チャーリー・パーカー)を忘れなさい」
コールマン・ホーキンスは、マイルスに対してこのような言葉を残しています。
そして1945年秋、ディジー・ガレスピーの後任としてマイルスは晴れてパーカーバンドのトランペッターに抜擢されます。
しかし、マイルスには「ディジー・ガレスピー・コンプレックス」に悩んでいました。
ディジーのように高音域で高速にテクニカルな演奏を求められる中、体格や生まれ持った唇の形などもあって、ディジーのような演奏できないと悩んでいたのです。
さらに、マイルスはジュリアードでの今年の秋学期への登録に失敗し、授業が退屈だったこともあって、遂に3セメスター後の1945年半ばに、ジュリアードを退学してしまいます。
こうして悩んだ挙句、マイルスは音楽の道を諦めかけます。
そして、父親に音楽の道を諦めることを伝えるべく帰省します。
しかし、マイルスの父親は、マイルスにこう告げました。
「マイルス、窓の外の鳥の鳴き声が聞こえるか?自分の鳴き声のないモッキンバードさ。他の鳥の鳴き声はなんでも真似るが、自分の鳴き声がないんだ。あんなふうになるなよ。自分だけのサウンドを身につけることが一番大事なんだぞ。自分自身に正直にな。やるべきことはわかってるんだろうし、お前の決心を信じるよ。金は独り立ちするまで送ってやる。心配するな(マイルス・デイビス自叙伝ⅠP.111)」
こうしてマイルスは、ディジーのようなプレイスタイルを追求することをやめて、自分独自のサウンドやスタイルを模索するようになります。
そして、この言葉はマイルスが様々なプレイスタイルを後に展開することとなりますが、自分独自のトランペットのサウンドは、生涯守り抜きました。
父との約束は、マイルスが死ぬまで守り抜いたのでした。
伝説のミュージシャンは父親もまた伝説級のかっこよさを誇るオヤジだったんですね!
クールの誕生
パーカーのクインテットで腕を磨くマイルスは、この時かなりのスピード感で多くの名演や名盤に参加しています。
1945年11月26日にサヴォイから発表されたセッションでは、「ビリーズ・バウンス」、「ナウズ・ザ・タイム」、「スライビング・フロム・ア・リフ」の3曲の録音を今でも聴くことができます。
ビバップ・シーンの中で着々と話題になりつつ、マイルスは、“間”を生かした演奏を模索しはじめます。
当時、いかに速く、いかにテクニカルに演奏するかでミュージシャンの腕前が試された時代でしたが、マイルスは余計な音を省いたスタイルを磨き、エクスクァイア誌のトランペット新人部門を受賞するなどますます好評となっていきます。
1949年には、パリ公演を経験し、初めての海外旅行でもありました。
マイルスは「物事の見方を完全に変えられてしまった」というほどのターニング・ポイントとなった旅であったことを明かしており、フランスを代表する歌手となる白人のジュリエット・グレコと僅か2週間弱ながらの旅の期間中に、恋人となります。
帰国後、マイルスは重篤なヘロイン中毒に陥ります。
というのも、アメリカで経験した人種差別がフランスではなかった上に、白人だったグレコが黒人のマイルスに、英語とフランス語とお互いに言葉を理解することができなかったのにも関わらず、分かちあえたからです。
その後、二人の関係は生涯継続したといわれています。
そして帰国したマイルスは、遂にチャーリー・パーカーバンドを脱退し、ギル・エヴァンスやジェリー・マリガンのアレンジの協力を得てマイルス9重奏団を結成。
ビバップ全盛期であった1949年に、アルバム『BIRTH OF THE COOL(邦題:クールの誕生)』を発表します。
同年の1949年には、かつて憧れだったデューク・エリントンからのバンドのオファーを断るほど、マイルスは自らのサウンドスタイルを追求し続けることとなります。
麻薬に溺れるマイルス
『BIRTH OF THE COOL』の発表もあり、メトロノーム誌のオールスター投票に選ばれるなど、マイルスはジャズシーンの中で、非常に注目を浴び、強い影響力を発揮するようになりました。
1951年には、レーベルのプレスティッジと契約。
さらには、ソニー・ロリンズのリーダーアルバム『SONY ROLLINS AND THE MODERN JAZZ QUARTET』に参加し、キャリアを積み上げていきます。
その一方で、マイルスは薬物中毒に陥り、仕事もままならない状況で、しまいには薬物中毒の記事が新聞に載ったことで、クラブのオーナーやレコード・レーベルのプロデューサーなどからの信用もどんどん失ってしまいます。
ヘロインやコカインなどのドラッグを購入するために、ライブのギャラや、友人から借りたお金などのほとんどを薬物に注ぎ込みました。
一時は仕事がほとんどない失業状態まで陥ってしまいます。まだ20代です。
そんなマイルスを唯一救ったのが、当時ブルーノート・レコードのオーナーであったアルフレッド・ライオンでした。
そんな完全麻薬中毒の状態のマイルスが録音したアルバムが『Miles Davis Volume 1』、『Miles Davis Volume 2』です。
麻薬渦におぼれていたマイルス・デイヴィスは、1953年のある日、クリフォード・ブラウンのライブを聴いて衝撃をうけ、そこから麻薬を断ち切ることを決心し、セントルイスの実家に籠もって一時的に薬物を断つことができました。
マイルス・ミュージックの誕生
1954年の春、マイルス・デイヴィスは当時契約していたレーベルのプレスティッジ・レコードから『Walkin’』をリリースしカムバックを果たします。
そしてここからマイルスは、数々の名盤と呼ばれる作品を発表していきます。
同じ年には、プレスティッジ・レコードから『Bags Groove』『MILES DAVIS AND THE MODERN JAZZ GIANTS 』のレコーディングも行われています。
『MILES DAVIS AND THE MODERN JAZZ GIANTS 』は、1954年のクリスマス・イヴにてレコーディングした際、マイルス・デイビスとセロニアス・モンクが喧嘩したことから、クリスマス喧嘩セッションとして話題となった作品となっています。
レコーディングに入る前、マイルスはモンクに対し、モンクが作曲した「ベムシャ・スイング」以外は、自分の即興パートでのピアノのバッキングはやめてくれと言いました。
そのとき後輩に自尊心を傷つけられたモンクは、マイルスと殴り合いのケンカになったという噂話で、実際には殴り合いの喧嘩はなかったそうです。
しかし、『The Man I Love – Take 2』を聴くと、モンクがソロを途中で止めてしまい、ベースとドラムのリズムだけが残り、マイルスが突然トランペットを吹き始めると再びモンクのソロが再開されます。
このことが、「モンクは、やはり演奏前のマイルスの指示に我慢ならず、思い出して怒りが吹き返したのではないか」と解釈されるようになり、どこか面白く語り継がれているというエピソードです。
また同年、天才アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーが麻薬に溺れ、この世を去ってしまうというジャズ界にとって衝撃的なこともあって、マイルスは再び麻薬に手を染めないよう祈るような気分でボクシング・ジムにすら通っていたと言います。
さらに、翌年夏にに行われたニューポート・ジャズ・フェスティバルで、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加すると、満員の観客の前で、感動的な演奏を披露し大熱狂を呼び起こしたことから、一夜にしてスーパースターの座を獲得。
コンサート会場にいたメジャーレーベルのコロムビア・レコードのプロデューサー、ジョージ・アバキャンは、演奏終了後の楽屋ですぐに契約の商談を持ちかけました。
しかし、マイルスにはプレスティッジとの契約が残されていたため、残りの契約期間もレコーディング活動を行うという条件で、マイルスはコロムビア・レコードに移籍します。
第一期クインテット時代
1955年秋マイルス・デイヴィスは、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、
ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、初めてのレギュラー・リーダーバンドとなるクインテットを結成します。
このクインテットは、後に第一期クインテットと呼ばれ、当時はほとんど無名のミュージシャンをマイルスが集めて結成されました。
ちなみに、レッド・ガーランドは元プロボクサーとして活躍した、異色の経歴を持っており、ボクシング好きのマイルスは当然レッド・ガーランドのバンド加入を喜びました。
こうして1955年10月26日、コロムビア・レコードより『‘Round About Midnight』をレコーディング。1956年にリリースします。
『‘Round About Midnight』の一曲目に収録されているアルバムの代表曲「‘Round Midnight」は、クリスマス喧嘩セッションでおなじみのピアニスト、セロニアス・モンクが作曲した曲で、親交が深いギル・エヴァンスがアレンジしたものをマイルスが演奏しました。
のちに、ギル・エヴァンスは、譜面を渡していないにもかかわらずマイルスがアレンジを正確に覚えていたことに驚いたということを明かしており、マイルスの記憶力の凄さが伺えます。
さらに、プレスティッジの契約を終わらせるべく、1955年11月16日、プレスティッジへ『The New Miles Davis Quintet』を吹き込みます。
しかし、それでもプレスティッジと”残りの契約期間もレコーディング活動を行う”という条件にて残り数枚のノルマがあり、契約完了に至りませんでした。
そこで生まれたのが、後に伝説となった“マラソン・セッション”です。
プレステッジ時代の最高峰とも言われており、マイルスが”モダンジャズの帝王”と呼ばれる大きなきっかけとなった出来事です。
ジャズレーベルプレステッジからコロムビアに移籍する際、プレステッジの条件として、残りの契約期間中に一定のアルバムをプレステッジからリリースしなければなりませんでした。
そこで、マイルス・デイヴィス・クインテットは、1956年の5月11日と10月26日のたった2日間でアルバム4枚分25曲をほとんどワンテイクでレコーディングしたのです。
そのアルバムというのが
『Cookin’』『Relaxin’』『Workin’』『Steamin’』
収録された曲は、スタンダード・ナンバーが多く、さらにマイルス・ミュージックの象徴でもあるミュートをつけたトランペットのサウンドをこのアルバムで完全に確立しました。
また、マイルス・デイヴィス・バンドはこのクインテットをはじめ、後のリーダーバンドでも積極的に若手を導入し、若いプレイヤーの画期的なアイディアや斬新さ、情熱溢れるプレイ、そして柔軟性に焦点を当てて、自分の音楽スタイルを模索し、常に新しいことにチャレンジし続けました。
(Relaxin’のレコーディングテープより)
また、マラソンセッションを最後に、第一期クインテットは、スタジオから遠ざかります。
というのも、サックスのジョン・コルトレーンとドラムのフィリー・ジョー・ジョーンズが重度のジャンキーに陥ってしまったからです。
そのため、テナーにソニー・ロリンズ、ドラムにアート・テイラーといったメンバーを迎え、ライブ活動を続けます。
モードの誕生
ビバップやハードバップなどを中心とするモダン・ジャズでは、コード進行をもとにアドリブ演奏を行うため、即興とはいいつつもある一定の制限がありました。
しかし、マイルスはさらに自由度が高い音楽を模索し続け、コード進行に囚われないアドリブ演奏を研究していきます。
それが、モード・ジャズです。
まず1957年、ギル・エヴァンスと共同してピアノレスビッグバンドといった構成で『MILES AHEAD』を制作します。
この作品では、フリューゲルホルンと呼ばれる、トランペットよりも丸く深くコクのある音色が特徴的な楽器をマイルスは使用し、吹きまくるフレーズではなく、間を用いて抑えられたサウンド、時にはパンチの効いたブラスセクションと、独特な抑揚が特徴的なスタイルとなっています。
1957年末には、ジョン・コルトレーンとフィリー・ジョー・ジョーンが再びマイルスバンドに戻り、さらにはアルトサックスのキャノンボール・アダレイをメンバーに加えて、6人編成のセクステットに進化していきます。
そして翌1958年、1957年に発表した『MILES AHEAD』の手法をもとにさらにモードの研究を押し進め生まれた作品が『MILESTONES』です。
このアルバムは、モード奏法を取り入れた実質的最初のアルバムとされています。
オレがモード奏法から学んだのは、限界がないってことだ。より多くのことを音列でできるから、和声進行といったようなことに悩まなくていいんだ。モード奏法の演奏で大事なことは、旋律的にどれだけ創造的になれるかだ。
コードに基づいてやるのとは違うから、32小節毎に、さっきやったことに変化をつけて繰り返すなんてこともなくなった。オレは、ワンパターンの演奏から遠ざかりつつあったし、もっと旋律的な方向へと向かっていた。だからモード手法に大きな可能性を感じたんだ。
しかしこのアルバムは、モードを取り入れたものの、モダンジャズの要素も多かったため、マイルスにとってまだ完成系ではありませんでした。
ちなみにこのアルバムの5曲目「Billy Boy」では、完全なピアノトリオによって演奏されており、自分のリーダーアルバムなのにも関わらず、マイルスは演奏していません。
というのも、マイルスは常に、自分がどのような演奏を披露するかではなく、どのようにすればバンド全体のサウンドが良くなるかということを徹底して考えたからです。
その考えが、このアルバムの「Billy Boy」という曲で現れています。
アルバム全体を通して聴くと、9曲収録されている中の5曲目にピアノトリオが入ることによって、ちょうどアルバムの中間地点に違うバンドサウンドが入るので、飽きずにアルバムを通して魅了させられます。
また、このレコーディング後、レッド・ガーランドはマイルスの音楽的な方向性と合わなくなってしまったためビル・エバンスという後に伝説的なジャズピアニストとなるミュージシャンをメンバーに加え、さらにモード奏法を研究していきます。
また同じく1958年、コロムビア・レコードと契約中のマイルスは、他のレーベルで自分の名義でアルバムを出すことができなかったため、当時マイルスグループのメンバーだったキャノンボール・アダレイをリーダー名義にし、ブルーノート・レコードから『Somethin’ Else』を発表します。
というのも、ブルーノート・レコードのオーナー、アルフレッド・ライオンが1952年にマイルスが麻薬に溺れ、非常に苦しんでいたジャンキー時代に
「年に一度のペースで録音していこう」
という男の約束があったのです。
そのため、ジャケット右下には小さく「MILES DAVIS PERFORMS BY COURTESY OF COLUMBIA RECORDS」(訳:マイルス・デイビスの演奏はコロンビアの好意による)と書かれています。探してみてください!笑
そして同じく1958年、パリに招かれたマイルスは、ルイ・マル監督のデビュー作品、映画『死刑台のエレベーター』の音楽を制作を担当し、フィルムの映像を見ながら即興演奏で録音するといったシネ・ジャズと呼ばれるムーブメントを巻き起こします。
時は1959年。
そして、マイルス・デイヴィスはいよいよ、現在世界で最も売れているジャズ・レコードと呼ばれるモード・ジャズの大傑作を発表します。
それは・・・
・・・・・・。
『Kind Of Blue』
です。
このアルバムは、全世界で1000万枚のセールスを突破し、今もなお売れ続けている異例のロングセラーとなっています。
『ローリングストーン』誌が発表した、歴史上最も偉大な音盤500では第12位、ビルボード・カタログ・チャートにおいてRock/Popの名盤を後目にTop10に入り続けるなど、ジャズという垣根を超え、ポピュラー音楽シーンにまで多大なる影響を及ぼした名盤です。
1960年にはモードにスパニッシュ要素をふんだんに取り込んだ『Sketches Of Spain』を発表。
このアルバムでは、マイルス自身初となるグラミー賞(最優秀オリジナル・ジャズ作曲賞)を受賞します、
こうして、モード・ジャズを確立したマイルス・デイヴィスは、のちのクラブジャズやファンクなどのジャンルが生まれるきっかけとなり、その強い影響力から”帝王”と呼ばれ、ジャズ界で最もカリスマ的な存在となっていくのです。
第二期クインテット時代
1960年、サックス奏者のジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィスのグループを退団し、他のメンバーも随時交代。
ソニー・スティットが加入しては脱退。ハンク・モブレーが加入しては脱退。
なかなかメンバーが固定されない日々が続き、ライブ・レコーディングを積極的に行うようになります。
そして1964年。
ようやくマイルスが納得するメンバーが揃います。
ピアノはハービー・ハンコック、サックスはウェイン・ショーター、ベースにロン・カーター、ドラムがトニー・ウイリアムスというメンバーで、当時は無名だったミュージシャンたちです。
この年、アーチー・シェップやアルバート・アイラー、セシル・テイラーといったミュージシャンがフリージャズとよばれるジャンルを開拓したり、ジェームス・ブラウン、チャック・ベリー、リトル・リチャード、ボブ・ディランといったミュージシャンがロックやフォークといった音楽ジャンルがシーンの代表となったため、ジャズが一気に古い音楽として広がっていきます。
だからこそ、マイルスは新しいジャズの方向性について考えていました。
だからこそ当時、マイルスはミステリアスな雰囲気を醸し出すショーターの作曲の才能を認めていました。
1965年、こうして生まれた作品が『E.S.P』
マイルスデイヴィス第二期クインテットの記念すべき最初のアルバムです。
フリーでもポップでもフォークでもなく、和音やコードやリズムの実験を取り入れ、マイルスは従来のジャズの枠を破って何か新しい音楽を作りたいという雰囲気がこのアルバムのタイトル曲でもある「E.S.P」からも伺えます。
しかしこの頃、大腿骨の炎症に悩まされており、このアルバムのレコーディング直後に悪化して入院、手術をします。
退院後も肝臓を患い、再び音楽活動から身を引くなど度々健康上の問題を抱えていたようで、さらには精神的要因もあり、復帰しては戦線離脱というのを何度か繰り返しました。
1967年には『Miles Smiles』をリリース。
1年8ヶ月ぶりのスタジオ・レコーディングです。
なんとか一時的に復帰を遂げたマイルスは、同じ年の1967年5月から7月にかけて、精力的にスタジオレコーディングを行いました。
その時に生まれたアルバムが、『Sorcerer』と『Nefertiti』です。
『Sorcerer』というタイトルは、ハービー・ハンコックがマイルス・デイビスにつけたニックネーム『ザ・ソーサラー(魔術師)』が採用され、アルバム名になりました。
なんと『Sorcerer』ではマイルスの作曲はひとつもなく、2曲目をはじめとするトラックではマイルスを除いたメンバーによって演奏されています。
それまでのマイルスは、自らトランペットを吹くことで自分のバンドを表現していきました。
しかしこの時代、マイルスは変化を求めました。
ビートルズが大ヒットし世界的に活躍、哲学者のミシェル・フーコーが『言葉と物』を発表、コルトレーンの急死、フリー・ジャズの衰退、マイナーな存在となりつつあったジャズ・・・
こうした背景があったからこそ、マイルスは自分のバンドを表現する手法を自らが演奏すること以外でも研究していきます。
そして、同じ時期に録音した『Nefertiti』は、マイルスの生涯において最後のアコースティック楽器のみで演奏されたアルバムです。
アルバムの一曲目に収録されているタイトル曲「Nefertiti」はフロント奏者であるマイルス、ウェインが全くソロを取らず、同じメロディを繰り返す曲として知られる曲です。
「Nefertiti」は、レコーディングの時、1回目の演奏が非常に素晴らしいものであったのにもかかわらず、プロデューサーであるテオ・マセロが録音をしていなかったため、結局アルバムに収録されたのは意図的に1発目の演奏の再現を試みたというエピソードがあります。
これを反省したマイルスは、これ以降のレコーディングからレコーディング時のセッションを全て録音するようになり、それが後の「セッション音源をテオが編集し完成させる」というスタイルに繋がっていきます。
また、マイルスデイヴィスの第二期クインテットは、1950年代のハードバップに対して「新主流派」と呼ばれ、1960年代を代表するジャズの一つのスタイルとなりました。
エレクトリック・マイルス時代
60年代後半、マルチ・トラックによるレコーディング技術により、音楽業界に大きな革命をもたらしました。
それは、パートごとのリテイクやダビング、ベスト・テイクの切り貼りといった新技術、楽器や機材の進歩などにより、ミュージシャンの表現力の幅が一気に広がっていきます。
そんな新技術に対していち早く目をつけたのは、マイルス・デイヴィスでした。
1968年2月16日。
マイルスがはじめてエレクトリックピアノとエレクトリックギターを導入したアルバム『Miles in the Sky』のレコーディングが始まります。
2曲目に収録されている「Paraphernalia」は、ギタリストのジョージ・ベンソンをフィーチャーしています。
続くエレクトリック・マイルスの2枚目は『Filles De Kilimanjaro(邦題:キリマンジャロの娘)』
このアルバムが、第二期クインテット最後の録音で、ピアニストのチック・コリアとベーシストのデイヴ・ホランドが参加した最初の録音となっています。
アルバム制作時には既に第二期クインテットは解散しており、ライブ活動ではすでにピアニストのチック・コリアとベーシストのデイヴ・ホランドのほか、ミロスラフ・ヴィトウス、ドラムにはジャック・ディジョネットといったメンバーで活動を展開していました。
というのも、ベースのロン・カーターがエレクトリック・ベースを弾くことを好まず、第二期クインテットの他のメンバーもやがて独立していったのです。
なかなか決まらないグループのメンバー、そして新しい音楽の方向性を模索している段階で発表した作品でした。
こうした中、1969年にアルバム『In A Silent Way』をリリース。
ジャズを土台として、大胆に当時のロックの要素を混ぜた実験的なサウンドは、のちにフュージョンという新しい音楽ジャンルの先駆けとなり、注目のアルバムです。
そして1970年。
世界中の音楽ファンを震撼させる作品を発表します。
それが、『Bitches Brew』です。
ジャズ史上最も革命的アルバムとされており、その新しいジャズのスタイル、スケールの大きさは、音楽シーンを震撼させました。
のちに、この作品でマイルスが手掛けたサウンドは「フュージョン」と呼ばれるジャンルを確立することとなります。
一方で『Bitches Brew』は、当時のアコースティック・ジャズファンからは「ジャズではない」と否定的でした。
それでも、当時のクロスオーヴァー系アーティストのスタジオ録音とは一線を画す独自の実験性が高く評価され、マイルスのアルバムとしては初めて、ゴールド・ディスクに達し、総合チャートのBillboard 200で自身唯一のトップ40入り、『ローリング・ストーン』誌が選んだ「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」で95位、さらにはグラミー賞受賞と、非常に話題となりました。
また、エレクトリック・マイルスの入門的名盤と言えば、『Bitches Brew』か『In a Silent Way』と言われるほどで、こうして独自のマイルス・ミュージックを世に送り出していきました。
さらに研究を推し進めていったマイルスは1972年10月『On The Corner』をリリース。
過激なパワーとリズムがマイルスの知性によって融合されていく過程を楽しめる作品で、『ジャズ・ファンク』と呼ばれるジャンルのパイオニア的な作品。
アフロ・ファンク的なリズムが特徴的で、現代音楽のテイストも感じられるサウンドとなっていますが、発売当時はこれまでのジャズからはあまりにも逸脱しすぎていたため誰にも理解されませんでした。
しかしマイルスの死後、クラブ・ジャズミュージックが発展したことで、現在ではこのアルバムは再評価されている作品となっています。
ジミ・ヘンドリックスとの関係
永遠のギターヒーローと呼ばれているロック・ミュージックのパイオニア、ジミ・ヘンドリックスと帝王のマイルス・デイヴィスとは、深い交流がありました。
ふたりの関係のきっかけは、マイルスの当時の妻だったベティ・デイヴィスの紹介もあって、マイルスがヘンドリクスの音楽を早い時期からチェックしており、その後、ヘンドリックスのマネージャーを通して交流が始まったそうです。
マイルスがヘンドリックスを自宅に招いてセッションをした際、ヘンドリックスが譜面を読めずコードの名前も知らないためマイルスがピアノで音を聞かせると、ヘンドリックスは即座に反応してギター演奏で返して来たといいます。
また、マイルスは自身のバンドのギタリストに対し、「ジミ・ヘンドリックスのように弾くんだ」と常々指示していたそうです。
また、ジミ・ヘンドリックスは当時のマイルスの妻であるベティ・デイヴィスと不倫関係に発展します。
かなり複雑な関係ですね・・・。笑
それでもマイルスとヘンドリックスは互いに認め合い、1969年には、ポール・マッカートニーと、ジミ・ヘンドリックス、そしてマイルス・デイヴィスによるスーパーバンドを結成するという話が持ち上がったことがあります。
企画は流れてしまいましたが、もし実現していたら現在の音楽シーンは大きく変わっていたはずです。
マイルスはヘンドリックスの音楽的才能に惚れ込んで共演を望み、共同でアルバムを制作する寸前の段階まで何度か進みかけていましたが、一度目はマイルス側が高額のギャラを要求したため流れてしまいました。
二度目は、マイルスとヘンドリックスが出演した70年のワイト島の音楽フェスティバルの後にロンドンで行われる予定でしたが、マイルス側が渋滞に引っかかり時間に間に合わず流れました。
三度目はギル・エヴァンスを加えた三人でニューヨークで録音をする予定であったが、その直前にヘンドリックスが死亡してしまい、結局具体的な形での共作は実現しませんでした。
空白の5年間
1972年、睡眠薬を飲んで愛車ランボルギーニを走らせていたマイルスは居眠り運転をして、安全地帯のガードレールに突っ込むという交通事故を起こします。
手術をしますがなかなか結果は思わしくなく、それ以降マイルスの身体は、日によっては全身に激痛が走るほどの状態となり、その反動で再び薬物に手を染めてしまいます。
交通事故の後遺症が残る中、胃潰瘍、声帯にできたポリープなど、マイルスの健康状態は演奏活動を続けられる身体ではなくなっていきます。
そして1975年9月9日、セントラルパーク内で開かれた野外フェスティバルを最後に、
すべてのスケジュールをキャンセルし、手術に挑みます。
しかし、ちょうど同じタイミングで肺炎を患い緊急入院、そして冬には手術と療養生活を過ごします。
結局退院したものの音楽活動を行うモチベーションはどこかへ消え去ってしまい、
マイルスは音楽活動をやめます。
その期間は、なんと5年以上。
その間一切トランペットには触れず、ドラッグやアルコール、女性関係などに溺れ、ほとんど外出をしませんでした。
そして、マイルスが沈黙を続けたことで世間からは
「カムバックをするのかしないのか」
「生きているのか、それとも死んでいるのではないか」
「もう楽器を吹くことができない身体になっているのではないか」
と噂されるようになり、ますます伝説のイメージを強くしていきました。
映画『空白の5年間』は、この時のマイルスの様子とフィクションを織り交ぜた作品です。
伝説的なカムバック
1981年、マイルス・デイヴィスは奇跡のカムバックを果たします。
この時のマイルス・バンドのメンバーは、ベースにマーカス・ミラー、ギターにマイク・スターン、サックスにビル・エバンス、ドラムスはアル・フォスター、パーカッションがミノ・シネルと、今回も当時は無名の新人を引き連れて、ブラック・ミュージックを研究していきました。
1981年7月には『THE MAN WITH THE HORN』をリリース。
そして全世界のマスメディアは、ジャズ・ミュージシャンとしてマイルスの復活劇を大きく取り上げ、復活したライブ・ツアーコンサートはかつてないほどの大成功を修めました。
この年、ニューポート・ジャズフェスティバルに出演するほか、日本ツアーも行っており、10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で特設ステージが設けられ、来日公演を行いました。
後日NHKテレビで放映され、ライヴ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されています。
なんとカムバックしてから、1990年までに日本には6回来日しており、当時バブル景気だった日本の様子が伺えます。
こうして、復活を遂げたマイルスでしたが、マイルスはさらなる進化をもとめ、コロムビア・レコードと距離をおきます。
ワーナー・ブラザーズ時代
1985年、マイルス・デイヴィスはそれまで30年在籍していたコロムビア・レコードを離れ、ワーナー・ブラザーズに移籍します。
ワーナー・ブラザーズに移籍後の初作品『TUTU』をリリース。
この作品は、元々の計画ではシンガーソングライターのプリンスが共同プロデュースを行う予定でしたが、最終的にはベーシストのマーカス・ミラーがプロデュースを務めました。
このアルバムは、グラミー賞(最優秀ジャズ・インストゥメンタル・パフォーマンス・ソロ部門)を受賞。
そしてマイルスは、ペイズリーパークでのプリンスのライヴにゲスト出演したり、TOTOによるアルバム『ファーレンハイト』にも、ゲストとして参加したり、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加しました。
1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーし話題を呼びました。
1991年の7月8日にはモントレージャズフェスに出演し、クインシー・ジョーンズの指揮で、約50名位のミュージシャンで結成されたオーケストラをバックに、マイルスはギル・エヴァンスとの共演を果たしました。
さらにマイルスの音楽的探究は止まらず、次にヒップホップに注目します。
当時、ヒップホップ界で注目を集めていたプロデューサー、イージー・モー・ビーをゲストに迎え、新アルバムの制作を開始したときことでした。
マイルス、死す。
8月25日に行われたロサンゼルスの「ハリウッドボウル」のコンサートの直後、意識不明になり、緊急入院。
その後、一時意識を取り戻したマイルスは、当時進行していた制作活動もあり、トランペットを手にするものの、再び意識不明に。
というのも、マイルス・デイヴィスは、肺炎と呼吸不全、脳卒中の合併症を患っていました。
そして・・・
1991年9月28日、午前10時46分。
遂に帰らぬ人となってしまいました。
享年65歳。
そして、イージー・モー・ビー制作中だったアルバムは、イージー・モー・ビーにより、マイルスがレコーディングで遺したトランペットの演奏やお蔵入りしていた音源を編集、サンプリングし、9曲のトラックでアルバムを仕上げました。
1992年6月、マイルス・デイヴィスの遺作としてリリースされた作品が『Doo-Bop』です。
死後のマイルス
マイルス・デイヴィスの作品の中でも、エレクトリック・マイルス時代の作品は、死後クラブ-ヒップホップ界隈から猛烈な支持を集め、再評価されています。
また、死後から15年経った2006年にはロックの殿堂入りを果たしていて、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていたハービー・ハンコックが務めたりと、現在もマイルスファンが多く健在していることは確かです。
またこれまでにマイルスが受賞している作品はこちらです。
マイルス・デイヴィスは、ジャズという音楽ジャンルに囚われず、20世紀の音楽シーン全体に非常に大きな影響を及ぼし、その文脈は今でも受け継がれていると言えるでしょう。
日本との関わり
マイルス・デイヴィスは1964年、第二期クインテットの時代に初来日しました。
アルバム『マイルス・イン・トーキョー』は、そのときのライブ演奏を収録した作品となっています。
日本のジャズファンからのマイルスの支持は熱烈で、これを機に演奏スタイルを変えつつ何度も来日公演を行います。(バブル経済だったことも要因の一つ)
また、ミュージックステーションのMCでもおなじみのタモリさんと、マイルス・デイヴィスの対談も有名です。
実際のマイルスの雰囲気や、タモリさんの緊張っぷりが伝わってきますね。
そんなタモリさんが「タモリのジャズスタジオBS/NHK」での放送でマイルスとの対談を振り返るシーンも貴重です。
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回は、最も偉大なジャズ・ミュージシャン、マイルス・デイヴィスについて、紹介しました。
マイルスから学ぶことは非常に多く、ミュージシャンのみならず、学生から社会人まで当てはまるのではないでしょうか。
それではまたお会いしましょう。
Jazz2.0編集部の濱田でした。