【紹介・解説】ビル・エヴァンスの功績や映画、名盤まで

みなさんは、ビル・エヴァンスというジャズピアニストをご存知ですか?

ビル・エヴァンスは、モダン・ジャズを代表するアーティストのひとりで、ジャズというジャンルを超えて幅広く愛されているアーティストです。

ビル・エヴァンスの代表作「Waltz for Debby」は、雑誌スイングジャーナルで「読者が選ぶ名盤ベスト100」1位を獲得するほどの人気を誇ります。

番場海史
というわけで、こんにちは!
jazz2.0編集部の番場です。

「ジャズピアニストと言えばビル・エヴァンス!」というくらい有名なアーティストです。
その圧倒的な知名度は、「世界一有名なジャズピアニスト」と言っても過言ではように思われます。

今回は、ジャズピアニストの代表格ビル・エヴァンスが

「なぜこんなにも人気なのか?」
「ビル・エヴァンスのどこがすごいのか?」

といったことを深掘りしていき、ビル・エヴァンスの名盤、映画、生涯なども紹介していきたいと思います。

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ビル・エヴァンスってどんな人?

基本情報

出生名:ウィリアム・ジョン・エヴァンス
    (William John Evans)
生誕:1929年8月16日
出身地:アメリカ合衆国
    ニュージャージー州プレインフィールド
死没:1980年9月15日(51歳没)
ジャンル:ジャズ、モダン・ジャズ、モード・ジャズ
職業:ピアニスト、作曲家、編曲家
担当楽器:ピアノ
活動期間:1956年-1980年
(Wikipediaより)

ビル・エヴァンスは、1929年生まれのアメリカのジャズピアニストです。

ビル・エヴァンスのクラシックの影響を強く受けた演奏スタイルは、当時としては新しく後世のミュージシャンに多大な影響を与えています。

また、ピアノトリオ編成やモード・ジャズなど、新しいジャズの在り方を開拓していき、モダンジャズを牽引してきたアーティストのひとりです。

ビル・エヴァンスはなぜ人気?

プレイスタイル

クラシック音楽を背景に持つビル・エヴァンスのプレイスタイルは、黒人音楽としてのイメージが強かったジャズに、新たな可能性を提示しました。

当時のジャズピアニストの多くは、バド・パウエルのように常にフォルティシモで速いパッセージを弾きまくるビバップスタイルが主流でした。

そんなジャズシーンの中で、王道のビバップスタイルを踏襲しつつも、クールジャズのような繊細で美しいタッチを共存させたビル・エヴァンスの演奏は新しかったのです。

Kind of Blue

「Kind of Blue」は、モード・ジャズという新しいジャズのスタイルを形成したことから、ジャズの歴史上で最高のアルバムと言われています。
ビル・エヴァンスは、そのアルバム「Kind of Blue」の完成に大きく貢献しました。

名義上は、収録曲の全てがマイルス・デイヴィスの作曲となっていますが、「Blue in Green」はビル・エヴァンスが作曲したものだと言われています。

「Flamenco Sketches」もビル・エヴァンスの「Peace Piece」という曲を原型にして作られた曲です。

「Kind of Blue」に多くのアイディアを提供したという点で、モード・ジャズという新しいスタイルの形成にも大きく貢献していると言えます。

また、「Kind of Blue」は、米議会図書館が保存する「ナショナル・レコーディング・レジストリ(アメリカの録音遺産登録)」にも選出され、アメリカの文化・芸術史上、きわめて重要な録音物とされています。

リバーサイド四部作

ビル・エヴァンスと、ベースのスコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンによるピアノトリオで制作された「Portrait in Jazz」「Explorations」「Sunday at the Village Vanguard」「Waltz for Debby」の4作品は、”リバーサイド四部作”と呼ばれ、最高の評価を受けています。

リバーサイド四部作の特徴はなんと言っても、自由で独創的なメンバー間でのインター・プレイで、その刹那的な個性のぶつかり合いは唯一無二です。

特に、アルバム「Waltz for Debby」は日本でとても人気で、雑誌スイングジャーナルで「読者が選ぶ名盤ベスト100」1位を獲得しました。
さらに、2015年にユニバーサルミュージックの企画「ジャズの100枚。」で厳選した100枚のジャズの名作を再販した際には、「Waltz for Debby」圧倒的な数で売り上げ1位を記録しました。

アルバム「Waltz for Debby」について、ジャズ好きとして知られる作家村上春樹さんもこう語っています。

〜前略〜どのトラックも素晴らしいけれど、僕が好きなのはMy Foolish Heart。甘い曲、確かにそうだ。しかしここまで肉体に食い込まれると、もう何も言えないというところがある。世界に恋をするというのは、つまりはそういうことではないか。

「ポートレイト・イン・ジャズ」(新潮文庫)/村上春樹・和田誠著

映画「ビル・エヴァンス タイム・リメンバード」

映画「ビル・エヴァンス タイム・リメンバード」

壮絶な人生を送ったビル・エヴァンスは、2015年にドキュメンタリー映画になっています。

映画「ビル・エヴァンス タイム・リメンバード」は、監督のブルース・シュピーゲルが8年の歳月をかけて、ビル・エヴァンス本人と親交のあったアーティストや身近な人々による証言、貴重なライブ、インタビュー映像を集めた作品になっています。

歴代最高のトリオと評されたビル・エヴァンス・トリオのドラマー、ポール・モチアンへのインタビューや、ビル・エヴァンスの代表曲「ワルツ・フォー・デビイ」のモデルになった姪デビイの証言などは必見です!

トレーラー

DVD

海外ではDVDも発売されていて、Amazonなどで手に入るので、ぜひ観てみてください!(日本語字幕あり)

おすすめの名盤5選

Waltz for Debby

「Waltz for Debby」は、ビル・エヴァンス・トリオの中で最高の評価を受けている"リバーサイド四部作"のうちのひとつです。
雑誌スイングジャーナルで「読者が選ぶ名盤ベスト100」1位を獲得、2015年ユニバーサルミュージックの企画「ジャズの100枚。」で圧倒的売り上げ1位を記録するなど、とても人気のある名盤中の名盤です。

メンバー

ビル・エヴァンス(ピアノ)
スコット・ラファロ(ベース)
ポール・モチアン(ドラム)

収録曲

1.My Foolish Heart
2.Waltz for Debby (Take 2)
3.Detour Ahead (Take 2)
4.My Romance (Take 1)
5.Some Other Time
6.Milestones
(以下、ボーナストラック)
7.Waltz for Debby (Take1)
8.Detour Ahead (Take 1)
9.My Romance (Take 2)
10.Porgy (I Loves You, Porgy)

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Portrate in Jazz

「Portrate in Jazz」も"リバーサイド四部作"のひとつです。
ビル・エヴァンスがジャズ史上で最高のアルバムと言われる「Kind of Blue」のレコーディングで、モード・ジャズという新しいスタイルの形成に貢献したのち、自身のバンドでモード・ジャズをした作品です。
「Autumn Leaves」などのスタンダード曲のアレンジも必聴です。

メンバー

ビル・エヴァンス(ピアノ)
スコット・ラファロ(ベース)
ポール・モチアン(ドラム)

収録曲

1.Come Rain Or Come Shine (Take 5)
2.Autumn Leaves
3.Witchcraft
4.When I Fall In Love
5.Peri's Scope
6.What Is This Thing Called Love?
7.Spring Is Here
8.Some Day My Prince Will Come
9.Blue In Green (Take 3)
(以下、ボーナストラック)
10.Come Rain Or Come Shine (Take 4)
11.Autumn Leaves (Take 9)
12.Blue In Green (Take 1)
13.Blue In Green (Take 2)

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Conversations With Myself

「Conversations With Myself」はビル・エヴァンスによるピアノソロ作品です。
1963年ダウンビート誌では5つ星の評価を獲得、1964年にはグラミー賞最優秀ジャズインストルメンタルアルバム賞を受賞しています。
曲ごとにピアノの演奏を3回に分けて録音し、それを重ねて作られています。

メンバー

ビル・エヴァンス(ピアノ)

収録曲

1.Round Midnight
2.How About You
3.Spartacus - Love Theme
4.Blue Monk
5.Stella by Starlight
6.Hey There
7.N.Y.C's No Lark
8.Just You, Just Me
(以下、ボーナストラック)
9.Bemsha Swing
10.A Sleeping Bee

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Undercurrent

「Undercurrent」は、ギターのジム・ホールとのデュオ作品です。
ダウンビート誌のジャズ評論家ピート・ウェルディングは、このアルバムについて「エヴァンスとホールのこのコラボレーションにより、最も美しく、完全に満足のいく音楽が生まれました」と高く評価しています。
写真家トニー・フリッセルによって撮影されたジャケット写真も評価が高いです。

メンバー

ビル・エヴァンス(ピアノ)
ジム・ホール(ギター)

収録曲

1.My Funny Valentine
2.I Hear a Rhapsody
3.Dream Gypsy
4.Romain
5.Skating in the Central Park
6.Darn That Dream
(以下、ボーナストラック)
7.Stairway to the Star
8.I'm Getting Sentimental Over You
9.My Funny Valentine(別テイク)
10.Romain(別テイク)

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Interplay

「Interplay」は、ビル・エヴァンスの作風からすると珍しいクインテット(5人編成)による作品。
トランペットのフレディ・ハバード、ギターのジム・ホールを交えたより複雑な"インタープレイ"が聴き所です。
また、このアルバムは1983年のビルボード・ジャズアルバム・チャートにおいて26位を記録しています。

メンバー

ビル・エヴァンス(ピアノ)
フレディ・ハバード(トランペット)
ジム・ホール(ギター)
パーシー・ヒース(ベース)
フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラム)

収録曲

1.You and the Night and the Music
2.When You Wish Upon a Star
3.I'll Never Smile Again(Take 7)
4.Interplay
5.You Go to My Head
6.Wrap Your Troubles in Dreams
(以下、ボーナストラック)
7.I'll Never Smile Again(Take 6)

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ビル・エヴァンスの人生

ーーー「彼の死は時間をかけた自殺というべきものであった」

これは、ジャズ評論家でビル・エヴァンスと親交の深かったジーン・リースの言葉です。

壮絶な運命に立ち向かい、真剣に音楽と向かい合ったビル・エヴァンスの人生が、端的に表されています。

幼少期

英才教育とクラシック音楽

1929年8月16日アメリカ合衆国ニュージャージー州プレインフィールドにビルは生まれました。

ロシアからの移民の母と、身分の高いウェールズ出身の英国人を父に持ち、裕福な家庭で英才教育を受けました

音楽好きだった父親は、ビルに6歳でピアノ、7歳でヴァイオリンとフルートのレッスンを受けさせ、10歳になる頃にはモーツアルトを弾きこなすほどの腕前だったようです。

また、ロシア系の母親の影響もあってか、幼い頃からラフマニノフストラヴィンスキーなどのクラシック音楽に親しんでいました。

ジャズとの出会い

高校を卒業すると、サウス・イースタン・ルイジアナ大学とマンヌ音楽学校で音楽を専攻し、作曲とクラシックピアノを学びました。

この頃には、兄とともにジャズに興味を持ち始めていて、ジャズのアマチュアバンドを組んで音楽活動をしていたようです。

学生時代は、アマチュアバンドの他にも、ダンス会場や結婚式の演奏への参加や、プロのバンドのエキストラ演奏をするなど、充実した音楽生活を送っていました

1962年にリリースされたアルバム「ムーン・ビームス」に収録された楽曲「Very Early」は、学生時代に作曲した曲です。

青年期

軍役

1951年になると、アメリカ陸軍に召集され、軍隊に所属しました。

兵役中は、陸軍バンドでの演奏の機会もあり、戦争の前線に立つこともなかったようですが、そのストレスは大変なものであったようで、この頃から麻薬の常習が始まりました。

ニューヨークでの音楽活動

1954年に兵役を終えると、ジャズ・ムーブメントの本拠地ニューヨークへと移り、本格的な音楽活動を始めました。

幼い頃から音楽教育を続けてきたビルの音楽技術は、伝統的・前衛的の両方のスタイルに対応することができ、クラシックピアノの影響を色濃く受けた演奏はニューヨークでも注目を集めました。

しかし、当時のジャズミュージシャンのほとんどはアフリカ系アメリカ人だったため、スラヴ系とウェールズ系の血を引くビルは圧倒的な少数派として、人種的な疎外感を感じていました。


最盛期

アルバム「カインド・オブ・ブルー」に参加

そんなとき、ビルの人生を大きく変える出会いがありました。

マイルス・デイヴィスのバンドへの参加です

マイルス・デイヴィスは、音楽に対してどこまでも真剣で、人種や性格などを度外視して、白人がひとりもいないバンドの中にビルを採用しました。

そして、ジャズの歴史に大きな影響を与えたといわれるアルバム「Kind of Blue」の録音に参加し、マイルスとともにモード・ジャズという新しい試みに挑戦することになったのです。

「Kind of Blue」に収録されている「Blue in Green」は、本作ではマイルス・デイヴィスのクレジットになっていますが、実際にはビル・エヴァンスが提供した曲と言われています。

「Kind of Blue」には、アドリブや作曲などにビル・エヴァンスのアイディアが多く取り入れられているため、モード・ジャズの在り方に大きな影響を与えていると言えます。

経歴だけ見れば順風満帆なように見えますが、内状は全然違いました。

マイルスは「俺は音楽ができるヤツなら肌が緑色のヤツでも雇う」と言ってのけるほど、人種の違いなど物ともしなかったようですが、他のバンドメンバーやバンドのファン達においては、そうはいかなかったのです。

繊細な性格のビルは、バンドメンバーによる差別や、マイルスのバンドに白人が加わることを非難する声に耐えることができず、そのストレスを麻薬の常習によって抑えていました。

当然そんな状態でバンドを続けることはできず、マイルスのバンドを脱退しました。


インター・プレイ 〜個性のぶつかり合い〜

マイルスのバンド脱退後は、ドラマーのポール・モチアン、ベーシストのスコット・ラファロとともにピアノトリオを結成しました。

このピアノトリオはファースト・トリオと呼ばれ、即興的で独創的なメンバー同士のインター・プレイが最高の評価を受けている、歴史に名を刻む名トリオです。

インター・プレイというのは、メンバー同士がお互いに触発しあい、共鳴したり、ぶつかり合ったりしながら演奏することで、ファースト・トリオの自由で革新的なインター・プレイはピアノトリオの新たな可能性を見出しました。

相性抜群の3人の音が交じり合う演奏は奇跡的で、特にベースのスコット・ラファロはビルの生涯最高のパートナーと言われています。

ビルはこの頃、今後10年以上付き合いを持つことになるエレインという女性にも出会っており、仕事もプライベートも充実した人生の絶頂期でした。


度重なる不幸

最高のパートナーの死

しかし、幸せな時間は突如として終わりを迎えました。

1961年、ベーシストのスコット・ラファロが交通事故で亡くなってしまったのです。

享年25歳でした。

最高のパートナーを失ったビルは、ショックでピアノの前に座ることすらできなくなってしまい、半年もの間ステージから姿を消しました

ピアノトリオ復活

ビルは彼女エレインの支えもあって、徐々に演奏を再開していき、翌年にはピアノトリオ演奏活動を復活させることになりました。

スコット・ラファロの後任にとして参加したチャック・イスラエルも、ビルの気まぐれ的な演奏に反応して音を出すといったインタープレイを行ったけれど、やはりスコット・ラファロとの相性に匹敵することはありませんでした。


また、この頃のビルの薬物の常習は前にも増してひどくなっており、1963年のヴィレッジ・ヴァンガードのライブでは、右手の神経にヘロインの注射を刺したため、右手がまったく使えなくなってしまって左手のみで演奏するという事件がありました。

ビルがアルバムのジャケットなどの写真で口を固く閉じたまま撮影をするのは、喫煙と麻薬の影響でひどい虫歯になっていたためだと言われています。


そして、1966年にエディ・ゴメスを新しいベーシストとしてメンバーに迎えました。

当時21歳であったエディ・ゴメスは、若くても優れたテクニックを持っており、なんと言ってもビルの演奏への反応がとても速かったのです。

そして、積極的なインタープレイでビルに気に入られたエディ・ゴメスと、1969年に加わったドラマー、マーティ・モレルによる新メンバーのトリオが誕生しました。(セカンド・トリオ)

セカンド・トリオは、歴代のビル・エヴァンス・トリオで最も長く続いたバンドで、多くの音源が残されています。

エレインの自殺

そんな矢先、ビルは新たに知り合った女性ネネットと結婚するため、10年以上にわたって交際していたエレインに別れ話を持ちかけました。

その数日後、エレインは地下鉄へ身を投げて自殺してしまいました

ビルの一方的な意思による別れ話であったために、ビルはショックと自責の念に駆られることになりました。

アルバム「Intuition」に収録されている「Hi Lili,HiLo」は、不幸な形で亡くしてしまったエレインに捧げられた曲です。

エレインの死をきっかけにビルの生活はどんどん悪化していき、メンバーも次々と入れ替わるようになり、トレードマークだったオールバックをやめ、ボサボサの頭にひげをたくわえるようになりました。

これは一説によると、不健康な顔を隠すためだったのではないかと言われています。

最終的には、ベースのマーク・ジョンソン、ドラムのジョー・ラバーバラとのトリオ(ラスト・トリオ)に落ち着きましたが、今までの静かで美しいプレイスタイルとは打って変わって、荒々しくも大きなスケールで、明るくダイナミックな演奏をするようになりました。

兄ハリーの自殺

追い討ちをかけるように、1979年に幼い頃から音楽を一緒にやってきた兄が拳銃で自殺しました。

ビルの生活は、取り返しのつかないほどに荒れ果てて、家族とも別居していましたが、意地をはっているかのように音楽活動だけはやめませんでした。


ビルの最期

そして、1980年9月9日ニューヨークのライブハウス「ファッツ・チューズデイ」での演奏がビルの最後の演奏となってしまいました。

晩年のビルは、医者に入院を勧められるほど衰弱していたが、ビルがそれに応じることはなかったそうです。

「彼には生きる意志が全くないように思えた」

とビルの診察を行った医師は証言しています。


こうして、ビルの”時間をかけた自殺”は終わったのでした。

まとめ

いかがだったでしょうか?

ビル・エヴァンスというアーティスト、ひいてはジャズという音楽について、少しでも理解を深めていただけたなら幸いです。

他のアーティストの紹介記事もあるので、ぜひご覧ください!

Jazz2.0編集部の番場でした!

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