「チャーリー・パーカーってどんな人?」
チャーリー・パーカーは、今からおよそ100年前にジャズの根幹を作った人物です。
「モダン・ジャズの父」とも呼ばれていているチャーリー・パーカーは、ジャズの世界では神格化されているほど、その武勇伝や功績は100年以上に渡って語り継がれています。
というわけでこんにちは。
Jazz2.0編集部の濱田です。
楽器演奏の技術や音楽的な才能は、今でもチャーリー・パーカーを超えるアーティストはいないのではと比喩されているほどです。
しかし、若い頃から麻薬に溺れ、精神病院に幾度となく入院したりと破滅的な人生を送り、34歳という若さでこの世を去ってしまいます。
今回はそんなジャズ史における最大の偉人と呼ばれるチャーリー・パーカーについて紹介していきます。
それでは参りましょう!
生い立ち
まずは、チャーリー・パーカーの生い立ちについて紹介していきます。
チャーリー・パーカーの生い立ちはドラッグ中毒とは対極にありました。
医者を目指し優等生だった少年時代
チャーリー・パーカーこと本名チャールズ・パーカー・ジュニア(Charles Parker Jr.)は1920年8月29日、米カンザス州カンザスシティのフリーマン通り852番地で生まれました。
軽喜劇のダンサー兼歌手兼ピアニストの父と、掃除婦や家政婦の仕事をしている母を持ち、チャーリー・パーカーが7歳の時、家族でミズーリ州のカンザスシティの市街地へ引っ越します。
そんなチャーリー・パーカーは、クリスパス・アタックス小学校というパブリック・スクールに通い、当時は成績がクラスでトップ、物覚えが良く、模範的な生徒だったようです。
というのも、ダンサー兼歌手兼ピアニストの父が仕事に溢れ、ある日突然家を出てしまい、母が、チャーリー・パーカーが父親のような人間にならないようにと、教育熱心に育てたからです。
そんな当時のチャーリー・パーカーの夢は医者でした。
サックス奏者チャーリー・パーカーの誕生
小学校を卒業したチャーリー・パーカーは1932年9月(1933年9月という諸説あり)に当時は難関校であったリンカーン・ハイスクールに入学。
しかし、ここでも勉強ができ過ぎてしまい、授業も退屈。もう少しで学校をやめるところだった、というエピソードまであるくらいでした。
そんなチャーリー・パーカーを学校に引き留めたのは、クラブ活動であったブラスバンドの存在でした。
このクラブ活動で本格的に音楽と出会います。
当初、チューバを担当していたパーカーでしたが、中学校の先生がパーカーのリード楽器の才能を見抜き、すぐにクラリネット、そしてサックスに転向。
こうしてサックス奏者、チャリー・パーカーの人生が始まります。
ハイスクール時代、学校の先輩が中心となって活動していたスクールバンド”ティーンズ・オブ・スウィング”という12人編成のビッグ・バンドに加入します。
ここで即興音楽(インプロヴィゼーション)を、ロバート・シンプスンという若きトロンボーン奏者に習います。
ロバート・シンプスンとチャーリー・パーカーは大親友の仲で、二人はいつも一緒にいたそうです。
しかし、ロバート・シンプスンは心臓が悪く、彼が21歳の時に手術が失敗、死去してしまいます。
この時、パーカーは人が変わってしまったほど落ち込んだそうです。
下積み時代
即興音楽(インプロヴィゼーション)を習ったチャーリー・パーカーは、ジャズの世界へ深く興味を持ちます。
当時、チャーリー・パーカーが住んでいたカンザスシティは、”全米でも有数のジャズの街”と呼ばれるほどジャズが盛んな街で、10代前半の頃から、年齢を詐称してジャズクラブに出入りするようになります。
そのときのパーカーのヒーローは、テナーサックス奏者のレスター・ヤングで、ライブをひたすら眺めたりジャムセッションに参加したりと学業やスクールバンドから徐々に離れていきます。
その当時参加したジャムセッションで、スケールや音階などが吹けずに独学で猛練習したというエピソードもあります。
キャリア
15歳でプロデビュー
練習の虫になったチャーリー・パーカーは、わずか15歳でプロデビューを果たします。
当時アメリカでは、プロのミュージシャンとしてジャズ・クラブなどで働くためには、ユニオン・カードと呼ばれる身分証が必要でした。
パーカーは、わずか15歳にしてそのユニオン・カードを取得しました。
その後、サックス奏者であるトミー・ダグラスのバンドに参加し、実力を伸ばしていきます。
しかし、生活はうまくいかず、家庭環境にも苦労したため、意を決してニューヨークに旅立ちます。
ニューヨーク時代とビ・バップ
ジャズの本場であるニューヨークに上京したチャリー・パーカーは、当初は演奏の仕事をほとんどもらえず、苦しい生活を余儀なくされました。
仕方なく、レストランで皿洗いのバイトをしたり、ウェイターやコックの仕事もしていたそうで、そうした仕事をしながら隙間時間にはジャムセッションに顔を出して、修行する日々を過ごします。この時にはすでにビ・バップと呼ばれるスタイルを確立していたともされており、実力は間違いないものとなっていました。
しかし、その間父親が亡くなり、葬儀のために一時カンザスシティに戻ったチャーリー・パーカーですが、ジェイ・マクシャンのバンドに参加し覚醒します。
というのも、ジャズという音楽が変化しようとしていた時期だったからです。
ジャズという音楽自体、時代や環境に応じて変化していく音楽で、現在も進化し続けています。
当時のジャズも変化の進行形の中にあり、ビ・バップを開発中だったチャーリー・パーカーは新しいスタイルのジャズ、ひいては最先端の音楽の中心人物として、ニューヨークで注目を集めるようになるのです。
特に注目を集めるきっかけとなったのは、1939年に行われたジャムセッションで「チェロキー」を演奏した時でした。12種類音程から繰り広げられるメロウなスケール、アプローチは、それまでのシンプルな即興演奏の限界を突破し音楽的な革新として、ミュージシャンの間では大きく注目を集めます。
しかしこの時、第二次世界大戦の影響もあって商業録音が禁止されていたため、ビ・バップの初期の開発が録音されていませんでした。
また、ビ・バップ開発の初期の頃、伝統的なミュージシャンやリスナーからは、ビ・バップというスタイルは否定的でした。
チャーリー・パーカーは、こうしたビ・バップ に否定的だった人を「Moldy figs(かびの生えたイチジク)」と呼び、のちにジャズの伝統主義者を指す言葉として用いられます。
こうした背景があったからこそ、ビ・バップは当初、広く認知させるのに苦労しました。
大ヒットしたビ・バップ
1945年に、それまで商業録音が禁止だったのが解除され、ビ・バップという音楽スタイルが世に広まっていきます。
同年、サボォイ・レーベルからトランペットマイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー、ドラムのマックス・ローチ、ベースのカーリー・ラッセル、ピアノにバド・パウエルといったメンバーでレコーディングセッションの活動を展開していきます。
この時には、「Now’s The Time」「Koko」「Moose The Mooche」「Billie’s Bounce」などといった楽曲がレコーディングされ、パーカーの代表曲としてジャズの歴史に刻まれる名曲が生まれます。
ビ・バップというスタイルの中でも、チャーリー・パーカーが得意とした、スリリングでスピード感と臨場感溢れる即興演奏と進化したブルースのフィーリング、複雑かつオリジナリティが求められるアプローチはいずれも、後世のミュージシャンを考慮しても、未だにチャーリー・パーカーが最も優れたミュージシャンの一人として認識されています。
また、パーカーは音量が大きいことでも知られており、「レコーディングをマスタリングするとパーカーに時だけメーターが振り切れる」といったエピソードが有名です。
こうして、現代でも語り継がれるジャズの根幹であるビ・バップは、当時の音楽シーンの最先端かつ大ヒットとなり、黄金時代を迎えることになるのです。
麻薬との戦い
天才的な即興演奏を開発したチャーリー・パーカーでしたが、その一方で重度のヘロイン中毒、精神病、アルコール中毒の沼に溺れていました。
ホテルで真っ裸でロビーに現れ電話をかけ始めたあと、スタッフに注意され部屋に戻った途端にベッドに火をつけるという事件を起こしたり、二度にわたる自殺未遂を行ったりなど、様々な逸話があり、どれも破滅的でした。
ライブやセッション、レコーディングなどの欠席も目立ち、演奏もふらつくことさえありました。
時には、施設に強制的に入院させられるなどして、本人も薬物と断ち切る努力をしましたが、一向に実らず、遂には34歳という若さでこの世を去ってしまいます。
代表作
チャーリー・パーカーは、1940年代前半から1954年のおよそ10年間でが多くの録音を残しました。
その期間の中で、チャーリー・パーカーの作った曲は、今日のジャズクラブでも演奏されるほど、ジャズのスタンダード・ナンバーとして継承されています。
そんなチャーリー・パーカーの代表作をいくつかピックアップしてみました。
Now’s The Time
1957年にリリースされたアルバム『Now’ the time』の代表曲。
この曲は、パーカーが作曲した中でも特に有名な曲で、パーカーがレコーディングの依頼を受けたその場で書ききったというエピソードがあります。
Au Privave
1951年1月17日に、ヴァーヴ(Verve)レコードでレコーディングされたFブルース。
パーカーがツアーでフランスに行った時、「Apres Vous ~(アプレ・ヴ)」(意味: 「お先にどうぞ」)という言葉が印象に残りもじったというエピソードがあります。
Confirmation
「Confirmation」は直訳すると「信仰の確認」という意味で、由来は不明です。
というのも、当時のジャズの曲には、タイトルに深い意味を持たず、ほかの曲と識別するための記号がわりにつけられていたこともあったからです。
Donna Lee
トランペッターのマイルス・デイヴィスが「これが初めてレコーディングされた自分の曲だが、いざレコードができてみたら彼の責任ではないがCharlie Parker作曲ということになっていた。」と公言しており、未だにパーカーなのかマイルスなのか、真相はわかっていません。
多くのミュージシャンがカヴァーしていますが、中でもジャコ・パトリアスのテイクなどが有名です。
Ornithology
「Ornithology」は直訳すると”鳥類学”という意味になりますが、これはパーカーのニックネームが「バード(Bird)」ということが影響しています。
Yardbird Suite
バレエ組曲「火の鳥(FireBird Suite)」という有名な楽曲を作ったイゴール・ストラヴィンスキーをリスペクトしていたバードは、この曲名をもじって作ったのではないかと言われています。
周りからバードと呼ばれていたパーカーですが、ディジー・ガレスピーはずっと「ヤード」と呼んでいたそうです。
こうして「ヤード」と「バード」と「組曲」が合わさって「YardBird Suite(ヤードバード組曲)」という曲名になったのではないかと言われています。
おすすめアルバム
Charlie Parker On Savoy
このアルバムは、チャーリー・パーカーの黄金時代のセッションを録音した作品で、今もスタンダードナンバーとして愛されている名曲が数多く収録されています。
若きマイルス・デイヴィスの演奏もこの作品から楽しむことができます。
メンバー
- チャーリー・パーカー(as)
- マイルス・デイビス、ディジー・ガレスピー(tp)
- バド・パウエル(p)
- トミー・ポッター(b)
- マックス・ローチ(ds)
ほか
Charlie Parker With Strings
ストリングスをバックに、チャーリー・パーカーが歌いあげるように演奏した作品です。
このアルバムはパーカー入門として、昔から定評のあるアルバムで、様々なジャズ入門書でも取り上げられています。
メンバー
- チャーリー・パーカー(as)
- アル・ヘイグ(p)
- トミー・ポッター、レイ・ブラウン(b)
- ロイ・ヘインズ、バディ・リッチ(ds)
ほか
Bird and Diz
チャーリー・パーカーの盟友で、共にビバップを作り上げたトランペット奏者のディジー・ガレスピーとの作品です。
バードの愛称で親しまれているチャーリー・パーカーと、ディズの愛称で親しまれているディジー・ガレスピーの二つをとって『Bird and Diz(バート&ディズ)』というアルバムのタイトルになっています。
チャーリー・パーカーの録音は、1940年代当時の録音技術の影響もあり、ベースの音が聞こえなかったりノイズが入っていたりと、少し聴きづらい録音が多いですが、この作品はチャーリー・パーカーが残した録音の中でも非常に聴きやすく、おすすめの一枚です。
メンバー
- チャーリー・パーカー(as)
- ディジー・ガレスピー(tp)
- セロニアス・モンク(p)
- カーリー・ラッセル(b)
- バディ・リッチ(ds)
映画『BIRD(バード)』
チャーリー・パーカーと妻のチャンの生涯を描いた映画です。
アカデミー賞録音賞、カンヌ映画祭主演男優賞、特別優秀技術賞を受賞した作品で、チャーリー・パーカー役は、フォレスト・ウィテカーが演じています。
チャーリー・パーカーがどのように生きて活躍したのか、当時の社会の中での活動の事細かを理解することができます。
まとめ
いかがだったでしょうか。
伝説的なミュージシャンとして語り継がれるチャーリー・パーカーですが、こうして生い立ちやエピソードを深く知ることで、また音楽の聴き方が変わってくると思います。
是非、チャーリー・パーカーの音楽をお楽しみください!
それではまたお会いしましょう。
Jazz2.0編集部の濱田でした。