アート・ブレイキーというドラマーをご存知ですか?
「知らない」という人でもアートブレイキー&ジャズメッセンジャーズの代表曲「Moanin’」の有名なフレーズはどこかで聴いたことがあるのではないでしょうか。
今回は、
「アート・ブレイキーってどんな人?」
「アート・ブレイキーってどこがすごいの?」
「おすすめの名盤を知りたい!」
という人にむけて、アート・ブレイキーのことを紹介していきたいと思います。
1919年米国ピッツバーグ生まれ。名コンボ、ジャズ・メッセンジャーズのリーダー兼ドラマー。ピアニストから10代後半にドラムに転向。野生味あふれるドラミングでジャズ界を代表するドラマーとなる。1954年にハード・バップの幕開けを告げる“バードランド”での歴史的名演を経て、ジャズ・メッセンジャーズを結成。35年間にわたってリーダーを務め、このコンボから多くの優れたジャズマンを輩出した。1990年10月16日、71歳で他界。
(CDジャーナル https://artist.cdjournal.com/a/art-blakey/100909 より)
アート・ブレイキーは「ナイアガラ・ロール」と言われる独特の奏法で有名なドラマーであり、ビバップスタイルの先駆者と言われています。また、自身のバンドアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズからは、挙げきれないほどの著名ミュージシャンを輩出しました。
また、アフリカンなリズムや、ドラムの新しい奏法などを取り入れたことなど、アート・ブレイキーの功績は後世に大きな影響を与えています。
jazz2.0編集部の番場海史です。
アート・ブレイキーは、大の日本好きとして知られていて、日本語の題名のついた曲を出していたり、自分の子どもに日本風の名前をつけていたりするらしいです。
今回は、アート・ブレイキーの功績、名盤、生涯などを紹介していき、アート・ブレイキーはどんな人なのかを掘り下げていこうと思います。
アート・ブレイキーのココがすごい
ビバップスタイルのドラムの先駆者
アート・ブレイキーのアグレッシブなドラムの演奏スタイルは、ケニー・クラーク、マックス・ローチと並んで、ビバップスタイルの先駆者とされています。
とりわけ、アート・ブレイキーが得意とする細かいドラミングは、ナイアガラの滝を連想させるとして「ナイアガラ・ロール」と呼ばれています。
アート・ブレイキーのドラムは、バッキングとしての評価も高く、管楽器奏者を上手くたてるような演奏と、なめらかにのびるシンバルの音には定評があります。
アメリカの映画監督ケン・バーンズのドキュメンタリー番組では、アート・ブレイキーのドラムについてこのように紹介されていました。
ブレイキーは、モダンジャズにおける主要人物であり、ドラミング・スタイルの形成に重要な役割を果たしました。
エクスタインとの初レコーディングや、1947年のモンクとの歴史的セッションに特にみられる、三連やクロスリズムの中で、迫力のあるスネアやバスドラムのアクセント、そしてそれによって際立つダークなシンバルサウンドからは、力と独創性がにじみ出ています。〜後略
ジャズドラムにアフリカンドラムを取り入れた
アート・ブレイキーは、ジャズドラムに「ドラムの側面を叩く」「ひじを使って太鼓の音程を変える」などのアフリカンドラムの要素を取り入れました。
「アート・ブレイキーの生涯」でも紹介しますが、アート・ブレイキーは2年間アフリカに渡っていた時期があります。
本人はインタビューで「アフリカへ行ったのはドラムを学ぶためではない」と言っていますが、現地で学んだドラム奏法を自己流にアレンジしてジャズに応用したものと思われます。
アート・ブレイキーの取り入れたアフリカンスタイルの演奏技法は、現在でもジャズの演奏でよく使われるものとなりました。
ブレイキーは、自身のドラミング・スタイルとアフリカン・ドラミングのスタイルを比較されることを嫌いましたが、1948、49年にアフリカを訪れて以降は、アフリカン・ドラミングの要素をいくつか取り入れています。
ドラムの側面を叩く奏法や、ひじを使ってタムのピッチを変える奏法などがそれにあたります。
後に、アフリカのミュージシャンや作品などを取り入れたレコーディングも企画しています。
〜後略
アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ
アート・ブレイキーの率いるバンド、「アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ」は、バンド結成以降アート・ブレイキーを残してメンバーが何度も入れ替わっています。
バンドを抜けたメンバーがことごとく名をあげるため、数々の著名なミュージシャンを輩出したとして高い評価を受けています。
アート・ブレイキーには、優秀な新人を発掘する能力や、優れた統率力・指導力があったことがうかがえます。
以下、主なジャズ・メッセンジャーズ出身アーティストです。
功績
アート・ブレイキーは、その大きな影響力や実績から、数々の賞を受賞しています。
- 1976年ニューポートジャズフェスティバル殿堂入り
- 1981年ダウンビート誌ジャズ殿堂入り 読者選考賞
- 1982年スミソニアン協会パフォーミングアーツ感謝状
- 1982年リー・モーガン メモリアルアワード
- 1982年ジャズの殿堂入り
- 1984年アルバム「New York Scene」がグラミー賞ベストジャズインストゥルメンタルパフォーマンス賞受賞
- 1986年ジャズノートアワード
- 1987年バークリー音楽大学 音楽博士号取得
- 1991年マーティ・ルーサー・キング人道賞
- 1998年シングル「Moanin’」がグラミー殿堂入り
- 2001年アルバム「Moanin’」がグラミー殿堂入り
- ピッツバーグジャズフェスティバル賞
- 2005年グラミー生涯功労賞
アート・ブレイキーの日本好き
アート・ブレイキーは大の日本好きとして知られています。
その理由は以下の通りです。
初来日時、とあるファンから記念写真をせがまれ、「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」と驚き、ファンが「そんなこと知ってます。ぜひ一緒に」と答えたことにさらに驚き喜んだ。当時のアメリカでは有色人種に対する差別が公然と行われていた為、ブレイキー一行はそのファンの反応に戸惑いを感じると同時に、大いに感銘を受けたようである。
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/アート・ブレイキー より
度重なる来日
1961年の初来日以降、アート・ブレイキーは亡くなる直前まで何度となく日本来日公演を行っています。
日本公演では、日本人のジャズミュージシャンをゲストとして呼び込んで共演したり、ときには自分のバンドのレギュラーメンバーに加えることもありました。
日本語のタイトルの楽曲
アート・ブレイキーの演奏している楽曲の中には、「Kyoto(京都)」「Ugetsu(雨月)」「On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)」など、日本語のタイトルが付けられた楽曲があります。
子どもに日本風の名前をつける
アート・ブレイキーは、自分の子どもに”Takashi”、”Kenji”、”Akira”という名前をつけるほどの日本好きでした。
かつて、日本人女性と結婚していたこともあったようです。
おすすめの名盤5選
Moanin’
Caravan
The Night in Tunisia
A Night at Birdland
Mosaic
アート・ブレイキーの生涯
幼少期
生まれ
アート・ブレイキーは、1919年10月11日アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれました。
実の父親は、アラバマ州オザーク出身のアフリカ系アメリカ人で、1900年代にピッツバーグに移住してから、家を出て行ってしまったようです。
シングルマザーとなった母親も、子どもが生まれて間もなく亡くなってしまったため、アート・ブレイキーは兄弟とともに親の友人の家で育てられたそうです。
叔父のルビ・ブレイキーはピッツバーグで人気のある歌手だったようで、合唱団のリーダーをやりつつ、フィスク大学で教師をしていたようですが、アート・ブレイキーとの関わりはあまりなかったようです。
音楽との出会い
学校でのピアノの授業が、音楽との出会いだったようです。
アート・ブレイキーは、授業時間外にも自主的にピアノの練習をして、腕を磨いていきました。
その後も順調に技術を上達させていき、7年生(中学生くらい)の時にはピアノの演奏でお金を稼ぐようになっていました。
少年期
ピアノでお金を稼ぐ厳しさ
アート・ブレイキーは、15歳で結婚して妻と子供を持ったので、家族を養っていくためにお金を稼ぐ必要がありました。
朝までクラブで演奏し、夜が明けるとブレックファースト・ショーで働いて、午後2時ごろまでジャム・セッション、3時ごろから寝て、また午後の8:30にはクラブに行って演奏という、
超ブラックなスケジュールで働いていました。
それでも十分な稼ぎを得ることはできず、製鉄所で働いていたこともあったようです。
先輩たちの厳しい指導
その頃のアート・ブレイキーはやんちゃだったようで、ポケットにボトルのウイスキーを忍ばせて、演奏の合間にこっそり飲んでいました。
それを大先輩のミュージシャンであるシドニー・キャトレットに見つかって、
「酒の飲み方を覚える前に、ドラムの練習をしろ!」
と激しく怒られたこともあるようです。
アート・ブレイキーは師に恵まれ、シドニー・キャトレットの他にも、ケニー・クラーク等のアーティストからアドバイスを受けて育てられたようです。
このような先輩たちからの厳しくも愛のある指導が、後にバンドリーダーとして活躍していく下地になっていたのかもしれません。
このような先輩たちからの厳しくも愛のある指導が、のちにバンドリーダーとして活躍していく下地になっていったのかもしれません
そんなこんなで、ピアニストとしての腕を上げ、自身のリーダーバンドを持てるほどまで成長し、10代後半で活動の拠点をジャズの本場ニューヨークへと移しました。
青年期
ドラムへの転身
アート・ブレイキーがドラムへの転向を余儀なくされたのは、ニューヨークへ移ってクラブで演奏活動をしていたときのことでした。
ある日のライブの休憩中、アート・ブレイキーのもとに小さい子供が歩いてきて、「ピアノを弾かせて欲しい」と頼まれました。
その子にピアノを弾かせてみると、アドリブまで入ったすごい演奏でした。
その子は、幼い頃のエロル・ガーナーであったという話もあります。
その演奏を聴いた店のオーナーは、
「あの子にピアノを引かせるから、お前はこの店に残りたかったらドラムでも叩け!」
と言い放ちました。
それをきっかけにドラムへ転向したそうです。
このエピソードには諸説あり、マフィアが関わってるとか、拳銃を突きつけて脅されたなどという話もあります。
ほとんどのエピソードに共通しているのは、
「本当はピアノを弾きたかったのに、ドラムへの転向を強制させられた」
という点です。
ドラマーとしての活動
ピアニストがドラマーになって、いきなり上手く演奏できるはずもなく、最初の頃は仲間たちから笑われることも多かったようです。
そんな中、盟友であったトランペット奏者ディジー・ガレスピーの指導のもと練習に励み、瞬く間に成長していきました。
そんな努力の甲斐もあり、1939年にフレッチャー・ヘンダーソン楽団でドラムを担当するまでになりました。
アート・ブレイキーも徴兵対象ではありましたが、過去にジョージア州警察と傷害事件を起こしていたために不適合とされ、軍隊に入ることを免れたそうです。
1944年にフレッチャー・ヘンダーソン楽団でのキャリアを終えると、ビリー・エクスタイン楽団で演奏することになりました。
この楽団には、マイルス・デイビス、デクスター・ゴードン、ファッツ・ナバロ、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、サラ・ヴォーン等のアーティストが所属していて、彼らとの関わりはアート・ブレイキーにも大きな影響を与えました。
とりわけ、チャーリー・パーカーやセロニアスモンク等のビバップの大御所アーティストとの共演は、アート・ブレイキーがよりジャズらしいスウィングしたドラミングを身につける一助になったものと思われます。
アフリカへ渡り、イスラム教に改宗
1947年にビリー・エクスタインのバンドが解散すると、アート・ブレイキーは2年間アフリカを旅行しました。
アフリカ旅行について、1979年のインタビューでアート・ブレイキー自身がこう語っています。
俺はドラムを勉強しにアフリカに行ったわけじゃないんだ。ー誰かがそう書いてたみたいだけどーアフリカに行ったのは、ただ他に何もやることがなかったからさ。
演奏の仕事もなかったし、ボートでアフリカに行くしかなかったのさ。
俺は、宗教や哲学について勉強するために行ったんだ。
ドラムのことなんか考えてもなかったよ。俺は、宗教について何かできることはないか、見つけに行ったのさ。
俺が生まれ育った環境では、選択肢がなかったんだ。ただ教会に放り込まれて、お前はこうやって生きていくんだと言い聞かされた。俺はキリスト教徒にはなりたくなかったんだ。キリスト教は好きじゃない。
あんたはこの国で政治の勉強ができただろうが、俺は世界の宗教について触れることはできなかった。だから俺はアフリカへ行ったんだ。
そんで俺が戻ってきた時には、みんなは俺が音楽を勉強しに行ったもんだとばっかり思ってるんだ。
Art Blakey quoted by Herb Nolan, DownBeat (November 1979 issue p.20)日本語訳
アート・ブレイキーは、アフリカでの滞在期間中にイスラム教に改宗し、アブドゥラ・イブン・ブハイナという名前を得ています。
イスラム教に改宗した背景として、イスラム教の教義に共感したこと以外にも、健康的な生活を送れることと、人種差別をカモフラージュできるといった事情があったようです。
当時のジャズアーティストの間では、アルコールやタバコ、薬物依存が蔓延していて、イスラム教徒であることはそれらを抑制する口実になりました。
また、当時のアメリカではまだ人種差別が公然と行われていて、アフリカ系だとホテルのチェックインを断られることもあったようです。
イスラム教に改宗することで名前が変わるため、アフリカ系アメリカ人であることを隠せるというメリットもあったようです。
アート・ブレイキー以外にも、ディジー・ガレスピーなどのアーティストがこの時期にイスラム教に改宗しています。
その後1950年代にはイスラム教徒としての活動をやめ、「アート・ブレイキー」を名乗るようになりました。
最盛期
ジャズ・メッセンジャーズの誕生
1947年にアート・ブレイキーズ・メッセンジャーズとして、アート・ブレイキーによる初のリーダー録音を行いました。
このときのメンバーが、
- トランペット:ケニー・ドーハム
- サックス&フルート:サヒブ・シハブ
- サックス:ムーサ・カリーム
- ピアノ:ウォルター・ビショップ・ジュニア
- ドラム:アート・ブレイキー
でした。
これが、メッセンジャーズとしての最初の活動になります。
その後、セブンティーン・メッセンジャーズというビッグバンドを編成しましたが、財政難で解散を余儀なくされました。
結成したばかりのメッセンジャーズとしての活動はあまり上手くいかず、軌道に乗り始めたのは、1950年代に入ってからでした。
1954年に、ホレス・シルヴァーをリーダーにして、ホレス・シルヴァー&ジャズ・メッセンジャーズを結成します。
- トランペット:ケニー・ドーハム
- サックス:ハンク・モブレー
- ピアノ:ホレス・シルヴァー
- ベース:ダグ・ワトキンス
- ドラム:アート・ブレイキー
このバンドは瞬く間に人気を博し、ファースト・アルバムリリースの翌年には2枚目のアルバム“The Jazz Messengers at the Cafe Bohemia”をリリース。
さらにその翌年には、トランペットをドナルド・バードに代えて“The Jazz Messengers for Columbia Records in 1956”を発売し、その人気を確固たるものとしました。
順風満帆なように思えた矢先、1956年バンドリーダーのホレス・シルヴァーが脱退しました。
ホレス・シルヴァー脱退後は、名前をアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに改め、アート・ブレイキーがリーダーを務めました。
低迷してしまった人気を取り戻すため、何度もメンバーを入れ替え、メッセンジャーズとしての活動を続けましたが、なかなかうまくいきませんでした。
そんな状況を打開するきっかけとなったのは、当時メンバーであったジャッキー・マクリーンが麻薬の使用で逮捕された事件でした。
ジャッキー・マクリーンの後任としてバンドに加わったのがサックス奏者ベニー・ゴルソンでした。
アート・ブレイキーは、ベニー・ゴルソンの几帳面で真面目な性格を気に入って、バンドの立て直しを任せました。
ベニー・ゴルソンは、バンドのメンバーを総入れ替えし、全く新しいジャズメッセンジャーズへと再編成しました。
- トランペット:リー・モーガン
- サックス:ベニー・ゴルソン
- ピアノ:ボビー・ティモンズ
- ベース:ジミー・メリット
- ドラム:アート・ブレイキー
新メンバーのお披露目公演は、ニューヨークのタウン・ホールで行われ、新オリジナル曲として「Moanin’」(ボビー・ティモンズ作曲)や「Blues March」(ベニー・ゴルソン作曲)などを演奏し、大成功しました。
その後、新オリジナル曲をまとめて収録したアルバム“Moanin’”をリリースし、大ヒットしました。
ジャズ・メッセンジャーズ出身アーティスト
1959年にベニー・ゴルソンがバンドを脱退し、ウェイン・ショーターがサックスを担当することになりました。
ウェイン・ショーターは、ジャズ・メッセンジャーズの看板曲であった“A Night in Tunisia”を長いドラムソロを入れたアレンジにつくりかえ、以降ジャズドラムをフィーチャーする代表曲となりました。
1960年代になると、トロンボーン奏者のカーティス・フラーを新たにバンドに加え、メンバーを次々に入れ替えていきました。
- トランペット:フレディ・ハバード
- サックス:ウェイン・ショーター
- トロンボーン:カーティス・フラー
- ピアノ:シダー・ウォルトン
- ベース:レジー・ワークマン
- ドラム:アート・ブレイキー
ベニー・ゴルソンをはじめとする、アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズ出身のアーティストは次々と成功をおさめていき、やがて才能のある新人を発掘し育てるバンドとして高い評価をうけるようになりました。
いつしか、ジャズ・メッセンジャーズはジャズ界のへの通過儀礼のようになっていき、ジャズ・メッセンジャーズ出身であるというだけで正真正銘のジャズ・ミュージシャンであると認められました。
その評価の背景には、アート・ブレイキーによる厳しい新人教育あったものと思われます。
以下はジャズ・メッセンジャーズ出身の代表的なアーティストです。
※これ以外のアーティストは、英語ではありますが、“The Jazz Messengers”を参照してください。
老年期
アート・ブレイキーの最期
アート・ブレイキーは1980年代後半まで、ジャズ・メッセンジャーズの活動を続けました。
70歳近いアート・ブレイキーは体力的にドラムを叩き続けることが難しくなり、1983年にラルフ・ピーターソン・ジュニアをドラマーとして起用しました。
また、晩年は難聴にも悩まされていたようで、音楽評論家ロン・ウィンは、
「晩年のブレイキーは、聴覚をほとんど失っていたが、補聴器を使うとタイミングが遅れるからと、使用を拒否していた。だから、音の振動を感じ取って演奏していた。」
と記しています。
(ロン・ウィンは、「実際は、ブレイキーの難聴は少し誇張されていたところがあった」とも記しています。)
アート・ブレイキーは、1990年7月の公演を最後に同年10月16日に肺癌で息を引き取りました。
まとめ
いかがだったでしょうか?
ドラマーとして、バンドリーダーとして、様々な形で評価されているアート・ブレイキーに対する理解を深めていただけたら嬉しいです。
他のアーティストを紹介している記事もあるので、あわせてご覧ください。